仏教の考え方
仏教の開祖である釈迦牟尼は、人間が「どのように考え、どのように行動すれば心豊かに生きられるのか」を、人生を懸けて考え抜いた人だった。その教えを一言で表すと「よく考えなさい」。何かに思考や生き方を預けることなく、自分自身でよく考え、その時々の状況に合わせていく。「これを信じよ」「こうしなければならない」というものではない。
物事に絶対性はない
仏教的な視点では、人々が生きて経験する物事は、非常に多くの要因の因果関係で成り立っていると考える。あらゆる物事には原因があり、そこに「縁」と呼ばれる作用があった結果、認知可能な状態で現出してくる。これを仏教用語で「因縁生起」という。
その因果・因縁も1対1の関係ではなく、いろんな要素が複雑なネットワークのように絡まっていて、我々はその中の1点を、現在の時空間で認識しているのに過ぎないと考える。つまり、物事に絶対性はなく、すべてが相対性で成り立っている。この絶対性のなさは「空」と表される。
そのため、その関係のネットワークの一部、たとえそれがごく微細なものであったとしても、その変化は全体に影響を与える。1年後のことを考えても、そこに絡む要因が多すぎるため予測できないと考える方が自然なのである。あらゆるものは変化し、一瞬たりともとどまっていないのだから、何かを固定的に考えて執着すると、苦しみの原因になる。それを見直すための思想を提案するのが仏教である。すべての仏教の教えは「苦しみを発生させないように」という考えが根本にある。
釈迦牟尼はよく「今を生きよ」と言う。「自分がここにいる」「何かが発生している」と認識できる瞬間は、今しかない。過去の結果が「今」であり、未来の原因が「今」なのである。過去は参考にすべきだが、その再現性は不確実。未来は予測できるが、その可能性も不確実。確かなのは「今この瞬間」しかない。過去、今、未来の3つのバランスが偏ると、苦しみが生まれてしまう。
自分はいずれ死ぬ、ということ以外、物事に絶対性はない。その自分の死さえも、大きな因果関係というネットワークの中でいかなる意味を持つのか、それは予測不可能である。だから未来に対して固定的な予断を持たず、しっかり「今」なすべきことをなしていこう、というのが仏教の考え方である。
長期的・全体的な利益を重視する
t資本主義は、その性質上、短期的・個別的な利益の追求が最適解となりがちである。しかし、それで世の中が回らなくなってきている。長期的・全体的な利益を重視することが、ポスト資本主義的な社会と言える。
長期的・全体的な利益の重要性は、仏教の「中観」「唯識」で説明することができる。
- 中観:あらゆる物事は因果関係と相対性を持つ。ゆえに万物に絶対的、独立的な実存性はない
- 唯識:あらゆるものは何かに認識されることによってのみ存在する
この考え方を前提にすると、「私」という概念は「他者」があってこそ成り立つ。なぜなら、広い宇宙に自分一人しかいなければ、「私」という概念は必要ないからである。だとすれば、他者が存在することで「他者ではないものとしての私」が確定し、逆に「私」がいるからこそ他者の存在も確定するという相互関係も見えてくる。すると、「私」は、他者と関わらずに自分だけで存在することはできないとわかる。
すべてのものは周囲とのバランスで成り立っているので、自分だけの利益を得ればいいという態度は結果的に崩壊を招き、自らを苦しみに陥れることになる。反対に、他者の利益を考えることは、他者と切り離せない「私」の利益を考えることにもなる。これが仏教の基本的なスタンスである。
メタ認知を持って生きる
仏教のゴールは「さとり」の境地に達することである。「さとり」とは、完全なるメタ認知を獲得し、時間や空間の認知スケールを自由自在にコントロールできるようになることと解釈している。仏教では、私たちが生きる現実世界を今より一段階メタな世界から見ると、この世界で物理的な身体を持って存在すること自体が、アバターのようなものではないかと考える。
仏教では万物の根源、物事の本質は「空性」であると考える。「実体のなさこそ本質である」という意味で、「色即是空、空即是色」はこれを表した言葉である。しかし「空」とは「空っぽ」という意味のような「無」ではない。あらゆるものが出現できる可能性の海、可能性がストックされている蔵のようなもの。「空」は様々な可能性を有しているからこそ、その時々の因果関係に従って、私たちが認知できる何らかの存在や現象として形而下に現れる。
さとりを開くこととは、普通では感じるのが難しい「空」の世界を直覚できるようになることではないか。そのために、仏教では瞑想をはじめとした修行がある。瞑想の極致で脳がある種のトランス状態になると、メタ世界の片鱗が見える可能性もあり得る。