神山プロジェクト
徳島県神山町には、様々なバックグラウンドを持った人が集まっている。神山に来る移住者には、いくつかの経路がある。主だったルートを挙げると、神山アーティスト・イン・レジデンス(KAIR)、神山ワーク・イン・レジデンス/サテライトオフィス、神山塾、地域おこし協力隊、フードハブ・プロジェクト、神山つなぐ公社である。
KAIRは、作品づくりで神山に滞在し、神山が気に入って移住した人々。2000年代前半から始まった流れである。次に、神山ワーク・イン・レジデンスやサテライトオフィスをきっかけとした移住。神山の移住交流支援を担ったグリーンバレーは2000年代後半から、パン店やカフェなど、地域が必要としているお店や職人を呼ぶというコンセプトの下、新しい移住促進プログラムを始めた。神山ワーク・イン・レジデンスである。このプログラムを進める過程で、移住希望者の中にエンジニアやクリエイターがいることに気づき始めたのが、東京や大阪のIT企業を神山に誘致するサテライトオフィスだった。
新しいプロジェクトが次々に始まる神山では、プロジェクトに参画するために、新しい人材が流入するという好循環が生まれている。しかも、アーティストやエンジニア、手に職を持つ人々、20〜30代の求職者など、フェーズによって流入する人のタイプが異なる。これが、神山の多様性の源泉である。
「神山をもっとワクワクするような場所に」というモチベーションで神山のまちづくりを始めたグリーンバレーに共鳴した移住者が、それぞれに楽しいと思うプロジェクトを始め、そのプロジェクトに共鳴した人々が神山に移住し、さらに新しいことを始めた。途中、行政がその輪の中に加わり、さらに大きなプロジェクトが生まれ、それがまた新しい移住者を呼び寄せる。過去20年の神山を振り返ると、この繰り返しである。
どこにでもあった田舎が「神山」になった理由
神山で起きていることは、Amazonの「弾み車」に似ている。地元の人が始めたプロジェクトによって移住者が引き寄せられ、集まった移住者同士、あるいは地元の住民と移住者との間でコミュニケーションが生まれてさらに新しいプロジェクトが始まり、それがさらなる移住者を呼び寄せるという循環である。
今でこそ安定的に回っている神山の弾み車も、最初からうまく回っていたわけではない。だが、繰り返し力を与えたことで、神山まるごと高専が誕生するほどの力を得るまでになっている。この弾み車に最初の力を加えたのは、後のグリーンバレーのメンバーである。
彼らの最初のプロジェクトは「人形の里帰り」だった。1990年、神領小学校のPTAの役員を務めていた大南は、学校の廊下に飾ってある「青い目の人形」に目が留まった。これは1920年代後半、対日感情が悪化した米国で、親日家の宣教師が人形を介した交流を提唱し、1万2739体もの人形が日本の小学校や幼稚園に寄贈された時のものだった。この人形の送り主を探し、里帰りを実現させたことで、米国ウィルキンスバーグでは熱烈な歓迎を受けた。そして、さらなる国際交流を進めようと「神山町国際交流協会」を設立した。
次に取り組んだのはALT(外国語指導助手)の受け入れだった。研修先として神山国際交流協会が手を挙げた。宿泊は町民の自宅に泊まる民泊スタイルを取った。そのアットホームなもてなしはALTの高い評価を受けた。
弾み車が回り始めるきっかけとなったのは、1999年に始めた「神山アーティスト・イン・レジデンス(KAIR)」だ。神山町に国内外のアーティストを招聘し、滞在期間中に作品を制作してもらうという活動である。KAIRが生まれたきっかけは、1997年に徳島県が打ち出した「とくしま国際文化村構想」だった。大南たちは、自分たちから具体的な構想を県に提案していった。
アーティストを呼べば済むという気軽さに加えて、町民が制作を支援し、その結果として町に作品が残るというプロセスは国際交流を重視する神山にふさわしい。小学校の空き教室をアトリエに、国内外のアーティストが町の中で創作活動するというプロジェクトを始めた。
KAIRのスタイルは、一般的なアーティスト・イン・レジデンスと比べるとかなり異質で、住民や地域との交流の比重が高いため、滞在期間が終わる頃になると、アーティストは自然と神山のファンになっていく。結果、移住を希望するアーティストが現れるようになった。その声に応えているうちに、古民家を所有する住民との交渉など、移住支援のノウハウがグリーンバレーに蓄積され始めた。
ここで重要だったのは、「おもしろい人が集まれば何かが生まれるはずだ」という確信をグリーンバレーが持っていたという点だ。グリーンバレーでは「モノ」ではなく「ヒト」に焦点を当ててきた。「人と人とのつながり」、今で言う「関係人口」を初めから重視していた。