世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学

発刊
2020年3月13日
ページ数
254ページ
読了目安
303分
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贈与によってのみ人はつながりをつくることができる
ギブ&テイクだけでは、人はつながりを作れない。贈与という行為によってのみ、人は信頼を獲得し、つながりを構築できると説き、資本主義の限界や人が金銭以外の対価を求める理由を紹介しています。

他者からの贈与でしか本当に大切なものは手に入らない

私達が必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないもの及びその移動を「贈与」と呼ぶ。それは、商品やサービスという「市場に登場するもの」とは異なる。

欲しいものがあるなら各々が自分で買えばいいのに、私たちはプレゼントという慣習を持っている。それは、誰かからプレゼントとして手渡された瞬間に「モノ」がモノでなくなるからである。もし自分で買えば、それほど高価であっても、「モノ」としての存在を超えることができない。

モノは、誰かから贈られた瞬間に、たった1つしかない特別な存在に変貌する。贈与とは、モノを「モノではないもの」へと変貌させる創造的行為である。だから、私達は他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができない。

贈与はつながりをもたらす

贈り物はもらうだけでなく、贈る側、差出人になることの方が時として喜びが大きい。贈与はつながりを生み出す。なぜなら、贈与には必ず返礼が後続するからである。つまり、贈与を受け取ってくれるということは、その相手がこちらと何らかの関係性、つまり「つながり」を持つことを受け入れてくれたことを意味する。

受け取ることから贈与は始まる

贈与は市場における「金銭的交換」とは全く異なる性質を持っている。交換は、対価さえ払える相手であれば誰でもいい。それに対して、贈与はすぐに完結せず、相手が誰でもいい訳ではない。交換は1ターンで終わるが、贈与は対流する。贈与は、誰かから受け取ることなく開始することはできない。贈与は誰かから受け取ったものの返礼として始まる。

お金で買えないものが贈与である以上、与えた側はそこに見返りを求めることはできない。もし何らかの対価を求めるのであれば、それは経済学的に計算可能な「交換」となる。計算可能な贈与を「偽善」と呼ぶ。

多くの人は贈与を「自己犠牲」として恐れる。しかし、既に受け取ったものに対する返礼なら、それは自己犠牲にはならない。贈与になるか偽善になるか、自己犠牲になるかは、それ以前に贈与を既に受け取っているか否かによる。

ギブ&テイクの限界

ビジネスの文脈では、相手に何かをして欲しかったら、対価を差し出すしかない。だから、大人になるとギブ&テイクの関係、ウィンウィンの関係以外のつながりを持つことが難しくなる。

問題は、私達は自分のことを手段として扱おうとして近づいてくる人を信頼することができないこと。「割に合うかどうか」という観点のみに基づいて物事の正否を判断する「交換の論理」には、信頼関係が存在しない。裏を返せば、信頼は贈与の中からしか生じない。

私達が交換するものを持たない時、交換の論理ではつながりを解消することを要求される。しかし、そもそも私達がつながりを必要とするのは、まさに交換することができなくなった時である。

贈与の負の側面

贈与には人と人を結びつける力があるがゆえに、その力は私達を縛り付ける力へと転化する負の側面も持つ。私達は、他者とのつながりを求めながら、同時にそのつながりに疲れ果てる。私達は何かをもらったら、お返しをしないままでいるとどこか落ち着かない気持ちになる。贈与は、差出人の意図にかかわらず、受取人に一方的な負い目を与える。

つまり、贈与者は名乗ってはならないのである。名乗ってしまうとお返しがきてしまう。贈与は後から、あれは贈与だったと気づいてもらうもの。だから、私達は受取人としての想像力を発揮する必要がある。