多くの人は見える世界しか見ていない
人間は、言葉や数字、あるいはお金という抽象概念によって「見えない世界」を飛躍的に拡大し、発展してきた。
動物が見ている世界と人間が見ている世界の違いは、人間はむしろ物理的でないもの(見えないもの)の世界の方が圧倒的に大きいという点にある。高度な知的能力を持つ人間は、そこに様々な抽象概念を持ち込んでそのフィルターを通して世界を見ている。
そして、人間にも大きく分けて2通りの人がいて、抽象度の高い世界が見えている人と見えていない人がいる。動物と人間の間に「世界の大きさの違い」があるのと同様に、抽象度の高い世界が見えている人と見えていない人とでは、その内面に天文学的な差がある可能性がある。
見えるvs見えないという構図は、人間の知的能力に関しても当てはめることができる。知的能力の両輪とも言えるのが、知識力と思考力である。知識というのは見えやすいもので、思考は見えにくいという関係にある。「見えない力を見る力」とでもいうべき思考力は、可視化するのが知識力に比べて圧倒的に難しくなる。
見えるものと見えないものを時間軸で捉えれば、見えるものとは既に起こったこと。見えないものとはまだ起こっていないこと、つまり未来のことと捉えることができる。過去は確定しているので、「誰の目にも見える」もので、正解があり不確実性がないという知識力の世界で、逆に未来は正解もなく不確実性が高い想像力や創造力の世界である。
見えるものと見えないものの構図を見ると、世の中は大きく「あるものから発想する」大多数の人と、「ないものから発想する」少数の人という関係で成り立っていることになる。「ないもの」は、五感では直接感じることはできない抽象的なものや概念なので、これは意識して捉えようとしている人でなければ捉えることができない。
「あるものから」の発想の人は、常に「事が起こってから」そこに受動的な反応を見せる。特に他者の失敗に対して「賢者の視点から」コメントする人というのが、典型的な「あるものから」の発想である。このような人は、一見賢そうに見えるが、常に「事が起こってから」物申しているので、実は「後出しじゃんけん」と同じである。
これとは逆に「ないものから」の発想の人というのは、常に「まだ起きていない」未来に向けてリスクをとった発言をし、そして行動を起こす。従って結果として、それは裏目に出ることも多く、「後出しじゃんけん」の人たちの攻撃の的になる。
見えない抽象の次元
見えない世界は、以下のように抽象概念のレベル分けがされる。
0次元:「ある」か「ない」か
相反する2つの選択肢を二者択一で判断する世界観で、そこには大きさや程度といった考え方はない。特徴的なのは、それら二値的な選択肢の間にいわゆる「グレーゾーン」がない。このような世界観は、単純である分、誰にでも簡単に理解できる。
1次元:白と黒に連続的な「グレーゾーン」が加わる
1次元では「程度」という考え方が出てくる。観察対象となるのが、人でも物でもそれらを何らかの尺度で捉えることで、それを定量化することができる。
N次元:複数の視点で多面的に見る
1次元という単数の次元が複数になる。1次元に1つずつある視点を複数組み合わせることで、新しい価値観ができあがる。このように発想できる人は少ないので、なかなか理解されず、多くの人に受け入れられるようになるのは相当の時間や労力を必要とする。
無限次元:常に柔軟に対象を観察する
固定的な物差しで物事を捉えるのではなく、ありとあらゆる次元を自由に発想できるという可変的な状態。視点が増えていくと、N次元から無限次元へと変わっていく。無限次元では常に可変的に捉え、「見えていない世界(視点)」が常にあるのではないかという姿勢を崩さないところに差がある。あくなき好奇心と、「自分が見えていない世界があるのではないか」と疑う心と謙虚さが、このレベルの実践には不可欠となる。
世の中の大多数の人は、0次元か1次元という「1次元」以下の世界観で生きている。人間は、自分中心でしか物事を考えられず、自分の見えているほんの一部分を全体だと思い込んでしまう。そして、問題には正解があり、複数の人間同士を限られた指標だけで優劣判断できると考え、これがSNSにおける様々な揉め事の原因になっている。
多様性や問題発見の能力が有効な時代には1次元までの世界が本来見るべき世界の「ほんの一部」であることに気づくことが、視野を広げる=次元を上げていくことにつながっていく。
見えないものを見るようにするということは、その抽象度に関しての視野を広げることと言っていい。自らの視野の狭さを自覚すること、つまり「無知の知」(自分に対しての客観的視点をもって気づきを得ていること)が必要である。