商売の原点はフリーマーケット
1995年頃は、週末になると各地で大小様々な規模のフリーマーケットが開かれていて、商店街や近所の公園では、家から持ち寄った不用品などが売られていた。当時、実家のある八王子の小さな公園で、生地や縫製の不良が原因で正規販売できない「B品」のスラックスをタダ同然で仕入れ、1本600〜700円で売っていた。
その頃は、アメリカの大学留学から帰国し、繊維商社のカキウチで働くサラリーマンだった。斜陽産業と言われた繊維業界は朝から晩まで働いても給料がほとんど上がらず、「お前、食えねぇだろう。これをフリーマーケットで売れよ」と先輩が焼却処分するしかないB品をこっそり回してくれていた。出店すると、近所のおじさんやおばさんが想像以上に買ってくれて、1日2万円ほどの売上になった。
ある時、代々木公園のフリーマーケットに行ってみた。当時の日本は空前のヴィンテージブームで、若者たちが1点モノを求めて古着を漁っていた。代々木公園では、そこかしこで古いTシャツやデニムを売っていた。日本では珍しいそれらは全部、大学留学していたアメリカで見覚えのあるものだった。アメリカのリサイクルショップで1ドル以下で手に入るTシャツが、代々木公園では2500円や3000円で売れる。その事に気づき、有給休暇で渡米し、10万円で買えるだけの古着を買って、代々木公園に持っていくと、仕入れた何倍もの値段で売れた。
その時、たまたま履いていた古いアディダスのスニーカーをお客さんが見て、「2万円で譲ってくれませんか」と聞いてきた。同じようなスニーカーなら、アメリカで10〜15ドルで売り叩かれているのを知っていた。スニーカーを買い付けて売っている人は周りにほとんどいなかったので、ここが戦えるフィールドだと確信した。
価値を見つける
独立した時、嫁さんの貯金と母ちゃんからの借入を合わせて、軍資金300万円を用意した。最初は、その300万円から渡航費や税金を差し引いた200万円で、古着やヴィンテージスニーカーを150cm四方のカートン(箱入りスニーカー20足分)を20箱分買って帰り、1ヶ月半で売り切るのが目標だった。フリーマーケット以外でも販路を持つため、原宿に出店することに決めた。紹介してもらったのはジャンクヤードの一番奥の2.7坪のスペースだった。こうして、1996年、チャプター1号店をオープン。
当時はSNSもないから、情報はクチコミのみ。どこよりもレアスニーカーが豊富で、毎日のようにディスプレイを様変わりさせていた。その噂はだんだん広まって、雑誌に店の情報が載るようになると一気に話題になった。渡米するたびに徐々に買い付けの量を増やしていき、半年間で3、4回買い付けると、資金はすぐに1000万円ほど貯まった。
チャプターをオープンして間もなく、転機はすぐに訪れた。その前年に発売されたナイキの「エア マックス95」がじわじわ売れ始め、大ブームを巻き起こした。「エア マックス95」の登場は、アパレル全体のマーケットそのものを変えた。その結果、古着やヴィンテージばかり取り上げていたファッション誌の多くが、新作を取り上げるスタイルに変化していった。この頃を境にチャプターは、スニーカーの並行輸入へと軸足を移していった。
スニーカーは当時から売れるものは売れるけど、売れないものは売れない、目利きの商売だった。だから、その売れるものを見極めどれだけ仕入れられるかが勝負の分かれ目。心強い腕利きバイヤーが味方にいたチャプターには、世界中から多くのレアスニーカーが集まってきたし、彼らを信じてどこよりもいい条件で買い取っていた。そうしてチャプターの名前は、すぐに世の中に知れ渡った。
価値をつくる
原宿にはスニーカーの並行輸入店が乱立した。だから、「とりあえずチャプターに行っておけば、新しいスニーカーが見られるよ」と言ってもらうことが使命だった。そのために、海外で発売されたスニーカーを日本中のどこのショップよりもいち早く店頭に並べることにこだわった。
この時、カキウチ時代の貿易の経験が役に立った。自分で輸入通関手続きを行うことで、午前中の便に荷物が載っていれば、14時か15時頃には原宿の店頭に並べられた。チャプターは、日本未発売のスニーカーが日本で初めて見られる場所だった。
この頃のストリート雑誌の編集部は、ナイキが商品貸し出しや誌面掲載の協力をストップしていたため、並行輸入業者や委託販売業者に頼らざるを得なかった。誌面に載ったスニーカーの価格は、他に情報がほとんどないので、貸し出した店の販売価格が相場になることがよくあった。誌面掲載も値付けも思うがままに、スニーカーは定価ではなく、完全に「価値」で売買されるようになった。