どうせ死ぬのになぜ生きるのか

発刊
2014年11月15日
ページ数
251ページ
読了目安
277分
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仏教を学ぶべし
人は「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という根源的な問いへの答えを見つけられないことが、漠然とした不安の原因になっている。精神科医の著者が、この漠然とした不安に向き合うためには仏教を日常に取り入れる事が有効であると説く。

漠然とした不安

どんな人でも、人生の中で悩み、不安を覚えながら生きている。悩みや不安というのは「繰り返し襲ってくる」という性質を持っている。私達は悩みや不安に直面すると、その原因となる問題を解決して、暗い気持ちを振り払おうとする。しかし運良くそれを振り払えたとしても、その後ずっと、悩みや不安から解放された人生を送る事ができるようにはならない。大抵はすぐに、同じような悩みや不安に囚われてしまう。

悩みや不安が振り払ってもなくなる事がないのは、具体的な1つ1つの悩みの根底にある「漠然とした不安」を解消できずにいるからである。それは恋愛やお金、人間関係といった具体的な形を取らない、暗く、澱んだ心の状態の事である。どれだけ幸福そうに日々を送っているように見える人でも、その心の中には、悩み、苦しみの渦中にある人とほとんど変わらない「漠然とした不安」がある。

 

どうせ死ぬのになぜ生きるのか

恵まれた生活を送っていても、心の中に不安があるのは、私達が「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに答えを出していないからである。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに答えられない限り、私達は根本的なところで「生きる事の意味」を見出せない。だからこそ、私達はいくらお金を儲けても、いくら恋人や家族に恵まれても、心の奥底にある「漠然とした不安」から逃れる事ができないのである。目の前の具体的な問題をいくら解決しても悩みや不安から解き放たれない理由は、ここにある。

 

仏教に答えがある

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに対して、「科学的」に答えるのだとすれば、「個体としての人間は死んでも遺伝子は後世に伝わっていく」とか「後の社会に残るような文化を伝えていく事が社会的生命としての人間の役割だ」という説明は可能である。しかし、少なくとも「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いを自分の問題として考えている人には、その答えは十分とは言えない。そこには「こうすればいいよ」が欠けている。

悩みや不安から自由になり、明るく爽やかな心を保って人生を送るには、仏教の教えこそが、それを可能にしてくれる。仏教は自分の心との付き合い方や生き方について、「こうすればいいよ」という具体的な実践の指針を明確に打ち出しながら、人々に支持を受け続けてきた。

 

現実をありのままに捉える

行や瞑想によって得られる成果は「感覚」の経験であり、「感覚」は言葉にならない。だから結局のところ行というのは「ただやる」しかない。「わからないままただやる」事によって初めて、私達は「言葉で説明できる限界」を超える事ができる。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに対する仏教の答えも、言葉にならない世界にある。だからこそ仏教では「行」を経験していく事によって1人1人がその答えを自分で得る事ができるよう、修行の道を整えてくれている。言葉や論理では決して伝わらない世界にある、身体的実感としての「答え」に至る道をそれぞれの人が自分の力で歩くためのツールが「行」である。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに対する「答え」は、単なる言葉や理屈だけでは十分でない。この難問の答えは、言葉による「理屈」や「論理」の中ではなく、言葉を越えた「現実」の中にある。この問いに対して納得できるような「答え」を手にするには、現実を「ありのまま」に捉え、その中で生きて行くための「力」を身につけなければならない。その唯一の道が「行」に取り組む事である。