一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い

発刊
2015年4月8日
ページ数
169ページ
読了目安
102分
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103歳の境地
103歳となっても現役で活動している現代美術家の篠田桃紅氏が、100歳を過ぎて至った境地を語った一冊。人は歳を重ねていくと何を思うのか。

生まれて死ぬ事は、考えても始まらない

これまで長寿を願った事はない。死を意識して生きた事もない。淡々と生きてきた。今でも死ぬまでにこういう事はしておきたいなど何1つ考えていない。いつ死んでもいいと思った事もない。

死生観がない。考えたところでしようがないし、どうにもならない。人の領域ではない事に、思いをめぐらせても真理に近づく事はできない。それなら一切を考えず、毎日を自然体で生きるように心がけるだけである。

 

自らに由れば、人生は最後まで自分のものにできる

103歳まで生きていると、いろんなところで少しずつ機能が衰える。生きとし生ける者、生物というものは衰えていく。これは真理。私達の知恵ではどうする事もできない。歳をとって初めて得られるものはあるのか。

歳をとるにつれ、自由の範囲は広がった。なにかへの責任や義理はなく、ただ気楽に生きている感じである。誰とも対立する事もなく、100歳はこの世の治外法権である。自由という熟語は、自らに由ると書く。自らに由っているから、孤独で寂しいという思いはなく、気楽で平和である。

 

無に近づいていると感じる

100歳を過ぎると、人は次第に「無」に近づいていると感じる。どうしたら死は怖くなくなるのか。考える事をやめれば怖くない。どうせ、死はいつか訪れると決まっている。人は老いて、日常が「無」の境地に至り、やがて、本当の「無」を迎える。それが死である。

 

過去も未来も、俯瞰するようになる

歳をとって、だんだんと失っていくものもあるが、得るものも全くない訳ではない。自分というものの限界を知る。歳をとった事で初めて得られたもの、歳をとったらもう得られないもの、それらを達観して見る事ができるようになった。達観するようになったというのは、歳をとって得たものの1つである。

 

歳をとるにつれ、自分の見る目の高さが年々上がっていく。今までこうだと思って見ていたものが、少し違って見えてくる。過去を見る自分の目に変化が生まれる。一方で未来を見る目は少なくなる。長く生きると、ある程度の事は満たしてきたので、未来よりも過去を見ている事に気づく。そして、未来を見る目にも変化が起こる。若い時は、頭に閃いた事は何でもやればできる、やれそうな気がどこかにある。しかし、今、未来を見ると、その瞬間、その未来を肯定する気持ちと否定する気持ちが同時にやってくる。

 

歳をとれば、人にはできる事と、できない事がある事を思い知る。そしてやがて悟りを得た境地に至る。それは、できなくて悲しいというよりも諦める事を知る。ここまで生きて、これだけの事をした。まあ、いいと思いましょうと、自らに区切りをつけなくてはならない事を次第に悟るのである。

 

長く生きたいと思うのは、生き物としての本能

あまり長生きはしたくないと言う人がいる。それは偽りだと思う。みんな、やはり長生きはしたい。誰だって死にたくはない。長生きしたいと思うのが、生き物としての本能である。

 

「私はいつ死んでもいい」と言う人がいる。それは言っているだけで、人生やるべき事はやったと自分で思いたいのである。自分自身を納得させたくて「いつ死んでもいい」と言う。そう言う事で、自分が楽になる。これもあれもしなければと思うと、負担がのしかかってくる。負担から逃れたい、やるべき事はやったと思いたい。

「いつ死んでもいい」と自分自身に言い聞かせているだけで、生きている限り人生は未完である。