ぼくの命は言葉とともにある

発刊
2015年5月30日
ページ数
267ページ
読了目安
273分
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視覚、聴覚を失った東大教授の考えていること
視覚、聴覚を失った東大教授が、何を考えてこれまで生きてきたのか。光も音も失った世界で生きる教授の考えていることとは何かが語られています。

光と音を失う

目が見えず耳が聞こえない状態を「盲ろう」と言う。現在、日本だけで約2万人の盲ろう者がいると推計されている。原因不明の病気によって右目を失明したのが3歳の時。9歳で左目も見えなくなった時は「ぼくはどうやら、周りの皆とは違う世界で生きる事になったなあ」と思った。しかし、視力を失っても音の世界がある、耳を使って外界とつながる事ができると考えていた。

ところが、14歳の頃に右耳がほとんど聞こえなくなり、18歳の時には残された左耳も聞こえなくなってしまった。不安と恐怖に包まれた日々だった。家族との会話も難しく、ラジオもテレビも聞こえない。ひたすら点字の本を読み、点字で日記や手紙を書いて過ごした。

 

生きる意味を見出すこと

18歳で盲ろうになった時に「どうして自分はこんな苦悩を経験しなければならないのか」と自問した。その結果、「理由はわからないけれど、この苦悩には何か意味があるんだ」と考える事にしようと決めた。

自分のしんどさには意味があるし、自分には果たすべき使命があるという考え方は、自己崩壊から逃れるための、苦悩の中での自分なりのサバイバル戦略だった。つまり、いかに生き延びるかを探っていた。自分が納得する事、つまり自分の状態に「意味」を見出す事が救いになる。人にとって意味を持つという事は、生きていく上でとても重要である。

最も、いったん生きる意味が見出せなくなった時、再び意味を見出すのは簡単ではないかもしれない。しかしそこで完全に絶望してしまうのではなく、そのつらさ、苦しさ、あるいはむなしさ自体にも意味があり、それがひいては生きる意味にもつながっていくのだと自身に言い聞かせる事が大切である。

 

自分の弱さを知ること

自分の中にある「生きる意味」といったものに気づける人はどういう人か。1つの条件は「自分の弱さをとことん知っている人」ではないか。自分が弱くて臆病な存在であり、醜い存在であるという事をとことん見抜き、とことん経験する。あるいはどん底を経験する。それによって、自分を包んでいた嘘の飾りが剥がされて裸になっていく。そうすると、自分がいかにちっぽけな存在かわかってくる。

自分の非力さ、無力さ、怠惰さといったものを認めて、どん底まで落ち込んだところで「それでも生きる意味があるか」と考える。そうする事で自分の生きる本当の意味や自分の中にある宝に気づく。

 

コミュニケーションという光

盲ろうの世界は宇宙空間に1人だけで漂っているような状態である。しかし、それは単に見えない聞こえないという状況を説明しているだけでなく、自分の存在さえも見失い、認識できなくなるような状況で生きている事を意味する。周囲の世界が徐々に遠のいていき、自分がこの世界から消えていってしまうように感じられる。

その真空に浮かんだ自分をつなぎ止め、確かに存在していると実感させてくれるのが他者の存在であり、他者とのコミュニケーションである。他者との関わりが自分の存在を確かめる唯一の方法という事である。このコミュニケーションの方法には、指点字という手法を使う。このコミュニケーションが保障された時、初めて「自分は世界の中にいる」と実感できる。

つまり、コミュニケーションこそが人間を支えている。他者とのコミュニケーションをとることによって、私達は初めて自己を認識できるようになる。

参考文献・紹介書籍