「オープンとクローズド」の戦い
歴史において、創造性と成果の黄金時代は大量にある。そこに共通するのは、人々の居場所や民族性、信仰などではない。様々な場所や時代、信仰の下でそれは生じている。異教のギリシャ、アッバース朝カリフ制のイスラム圏、儒教の中国、カトリックのルネサンス期イタリア、カルヴァン主義のオランダ共和国などだ。むしろ共通する要素は、それが新しい思想や洞察、習慣、人々、技術、ビジネスモデルにオープンで、それがどこから来たかなど気にしなかったことだ。
啓蒙主義と産業革命が西欧で始まったのは、世界のこの地域がたまたま最もオープンだったからで、それも一部は単なるツキでしかない。似たような制度変化を経験したあらゆる場所で、同じことが起きている。
オープン性は現代世界を創り出し、それを前進させる。予想外のところからくるアイデアやイノベーションにオープンだと、それだけ進歩できるからだ。文化、経済、技術における最も重要な制度は、中央が計画したのではなく、協力と競争、実験や試行錯誤の結果として生じたものだ。
オープンな制度の下なら人々は、その人格的な傾向などがどうあれ、作り出すより多くの問題を解決し、違った性質の人々が出会う可能性を高め、そしてその思想や仕事がお互いを豊かにする可能性も高まる。
新しいアイデアや技術、ビジネスモデルを試すのに、中央当局からお許しを得なくてもよくなって、自由に作って競争できるようになれば、人間の進歩も高まる。洞察の数、アイデアや解決策の組み合わせは、潜在的に無数にある。あらゆる知識を使い、あらゆるアイデアを試す唯一の方法は、みんなの好きにさせて、自由に協力しやりとりができるようにすることだ。
しかし、これには落とし穴がある。そもそも、調和ある協力という能力をヒトが発達させたのは、殺して盗むためだった。人々が協力を始めたのは、それが他の動物や他の人間集団に対する競争優位を与えてくれたからだ。協力することで、他人と折り合いの悪い相手は倒しやすくなる。そしてあらゆる集団は、収奪品を享受したいがその生産には貢献しない連中からの自衛手段を必要とした。従って、ヒトは「オレたち」と「ヤツら」を区別する方法を学んだ。
人間は交易者である一方で、部族人でもある。協力はするが、それは他人を倒すためだ。どちらの属性も人間性の本質的な一部だが、反対方向にヒトを向かわせようとする。片方は、新しい機会や新しい人間関係、相互に利益のある新しい取引を行うための、プラスサムのゲームを見つけさせてくれる。もう片方は、人々にゼロサムゲームに用心しろと伝える。これは他人をつぶし、取引と移動性を阻止しようという欲望を動かす。これが「オープンとクローズド」の戦いとなる。
オープン性に背を向けてはならない
現代社会は意図されたものではなく、それが実現したのはほとんど偶然のおかげだ。それが実現したのは、王や聖職者やギルドの統制があまりに穴だらけだったため、人々の創造性をすべて止められなかったからだ。それが広く受容されたのは、それがかなり長続きを許され、やがてその影響が社会や人々の生活水準において明らかになってきたからだ。進歩を続ける唯一の方法は、オープンさを増すことだ。自由こそが、進歩と問題解決が期待できる唯一の場所である。
しかし、このやり方で今後も発展が続くかはわからない。私たちはみんな、部族主義や専制主義、ノスタルジアに引き寄せられる心理的な傾向を抱えている。特に不景気や外国人、パンデミックに脅かされている時にはそれが顕著だ。
私たちが恐るべきなのは、こうした問題への恐れによって人類がオープン性に背を向けるようになるというリスクだ。それは課題への取り組み手段を奪うことになるし、既に達成したものも覆しかねない。
ある悪循環が既に始まっている。それは恐怖と部族主義の増大で始まり、そこからのフィードバックでさらにゼロサム思考と将来についての不安が拡大し、このためさらに群れたがりが生じる。
まず、深呼吸すること。敵を怒鳴って罵倒したいなら、人々が自分の正しさを最も確信するのは攻撃されている時だということを思い出すことだ。私たちにできる最も簡単なことは、私たちをお互いに刃向かわせ、外集団やマイノリティへの恐怖を掻き立てようとする専制主義者たちを拒絶することだ。そいつらが自尊心、減税、国家支援を約束しても騙されてはいけない。
これまでの歴史上の開花をすべて台無しにしたのは、オープン性の終焉だった。だが、現在の開花は、まだ救えるかもしれない。