仏教の根本原理
禅は「悟り」の本質を伝えてきた。禅の基本書の1つで、自分自身に目覚めるにはどうしたらいいのかをわかりやすく解き明かすために約900年前に生まれた10の絵コマが「十牛図」である。十牛図は、10の絵図と解説文で構成される物語で、牛を見失った牧人が、牛を探す過程を表現している。牛によって象徴されているのは「本来の自己」で、牧人はそれを探し求める人である。本来の自己を求め、それが実現されていく段階が「十牛図」の主題となっている。
①尋牛(探す)
見失った牛を探す。ここでは見失ったという意識が重要である。多くの場合、見失ったことに気づくことができないからである。無自覚であるという自覚こそが出発点で求められる。
②見跡(わかる)
牛の足跡を見つける。足跡とは仏陀の教えのこと。仏法を学び、教えを聞いて、頭で理解した段階。目で見るだけでなく、耳を澄ませ、匂いを嗅いで、全身全霊で感じることが大切である。
③見牛(出会う)
実際の牛を見つける。見ることを可能にしたのは「いま、ここ」への没頭である。牛を必死に追いかけ、身体を駆使し、体得する。
④得牛(捕らえる)
実際の牛を捕まえる。捕まえることはできたものの、牛は暴れて逃しかねない緊張感が走る。牛を捕らえたことは到達点であるが、捕らえた苦しみが始まる。より高い意識レベルでの苦闘と言える。
⑤牧牛(馴らす)
牛を飼い馴らす。逃げようとして暴れていた牛は、牧人の後を自然についてくる。牛も牧人を求めていたのかもしれないという気づきが次の旅を導く。
⑥騎牛帰家(一体化する)
牛にまたがって笛を吹きながら家に帰る。自己と真の自己の分離から統合、対立から調和へと、親密性が増す。牧人は牛を御するのではなく、牛に任せることに気づく。
⑦忘牛存人(手放す)
牛が忘れ去られ、牧人はただ故郷でまどろむ。忘れるとは、牛に対するこだわり、囚われがなくなるということ。自己実現の目的意識すらも消える。執着を手放すことで、牛と牧人、真の自己と自己の二重性が止揚され、これまでとは大きく異なる質的な変容を遂げた自己が立ち現れてくる。
⑧人牛倶忘(無になる)
牛のみならず、人も忘れ去られる。悟りという究極の目的にすらこだわらない、囚われない、手放し尽くした心境である。無いというのは虚無ではなく、乏しいことでもなく、十全たる可能性の充実と言える。あるのはただの一円相。空白の世界が広がっている。自分らしくあろうとすることが、本来の自分から離れていくことになっていたことに気づき、私を忘れることで、小さな自己を手放すことで、広がる世界である。
⑨返本還源(然る)
本に返り、源に還る。源とは童心であり、自然である。自然は人間の計らいを超えた「自ずから然る」境地、計らいや目的すら手放した時、思わず立ち上がってくる世界である。一円相として完結するのではなく、空から次の展開が始まる。何も無くなった世界から「色即是空、空即是色」へと進展していく。
⑩入鄽垂手(行ずる)
街に入って、手を差し伸べる。人々と暮らしを共にし、関わり、衆生に尽くす。高い視座から世界を洞察するにとどまらず、その洞察した世界へ自ら関わるという、上昇と下降の双方を自在に行き来する。往還活動にこそ、真理が宿る。
牧人は牛で、牛は牧人であった。生きとし生けるものは自分であって、その逆もまた真であった。真の禅者の自覚は、個人に閉じたものではなく、個の中で立ち現れ、そこから他者へとあまたへと広がっていく。
すべての物事は、別々に見えても根っこでつながっているという実感。この気づきは、光であり、いのちの喜びである。第10図は次なる第1図へと続き、円環を成していく。
ZEN MANAGEMENTサイクル
「十牛図」は次の5つの段階からなる。
- 発見(尋牛→見跡→見牛):不足から外側からの期待に適応する。
- 共生(得牛→牧牛→騎牛帰家):自力の内側に目線を向けて内部充実を図る。
- 忘却(忘牛存人→人牛倶忘):これまで大切にしてきたこと、こだわりを緩め手放す。
- 開花(返本還源):生きている実感とともに、生きとし生けるもの全てとつながっている感覚に満たされる。
- 覚他(入鄽垂手):貢献することに内側から湧き上がる喜びを感じる。
人は「差異化」と「統合」のステップを踏みつつ、同時に「独自性」と「交感性」の両極を経験しながら、これまでの囚われから解放され、複雑性を増して、変容していく。
この独自性と交感性、両極の往還を後押しする活動として、「内省」と「対話」が求められる。この「内省」と「対話」の2軸を往還させることで、「十牛図」の5段階を進み、人は発達していく。