なぜ悪いデザインが存在するのか
あなたの身の回りにあるものは、どれも誰かがデザインしたものだ。座っている椅子、使っているソフトウェア、働いている組織。自然界を除けば、みんな人間の手によってデザインされ、つくられたと言える。世の中のデザイナーたちは、そんな身の回りのものをつくるため、数週間、数ヶ月、または数年間がかりで何百回という判断を下した。
何かをうまくデザインするのは、私たちが思うほど簡単ではない。結果として、世の中ではわかりづらいもの、うまく機能しないものが年がら年中つくられている。もちろん誰だってわざと悪いものをつくろうとしているわけではない。
よいデザインを一種の「質」として捉えるのが便利だ。高い質を実現するには、それだけ多くの技術、資金、時間がいる。つまり、何かをつくる人は、限られた資源をどの種の質にどれくらい費やすべきなのか、常に判断を迫られることになる。
使いやすさのような大半の質に関して言うなら、何かをつくることの方がデザインすることよりも余程簡単であることが多い。何かを「デザインする」こと、それも「うまくデザインする」ことの目標は、誰かのために何かを改善することだ。何かを正確につくっただけでは、適切なものをつくったことにはならない。
大事なのは、この種の質を心から気にかけるという心構えだ。そこで、デザイナーの出番となる。デザイナーは、確立された方法論を使ってそれを成し遂げる。よいデザイナー、特に製品を使う人の体験にまで気を配るデザイナーは、心理学やユーザビリティ調査を用い、何かを使おうとする人々の様子を生で観察して、人々がどんなところでつまずいているのかを学ぶ。また、1万年以上にわたる人類のものづくりの経験から得た知識を活かそうとする。
ところが、多くの組織ではデザイナーが雇われないので、問うべき疑問がいつまでたっても持ち上がらない。これこそ「無意識的無能」の典型であり、何かが不得手なことを自分自身で自覚していない状態である。世の中にはびこる悪いデザインの大部分は、無意識かどうかはともかくとして、無能の結果と言っていい。
良いデザインとは
世界最高のハンマーと聞いて、どんなものをイメージするだろうか。ハンマーと言っても、そのデザインは小さなものから巨大なものまで何百種類とある。
つまり、用途を明確にしない限り、何かが本当の意味でうまくデザインされているかどうかは、判断しようがない。全く同じハンマー、モバイル・アプリ、法律であっても、どういう問題を解決しようとしているかによって、よいデザインにもなれば、悪いデザインにもなる。
私たちは、何かが「よい」とか「悪い」とかいうのは、そのもの自体に備わっている固有の性質だと考えがちだ。「これはよいソファーだ」とか、「こいつは最高の靴だ」などと言うが、これはものづくりに携わる人にとっては危険な思考の方向性だ。ものの良し悪しがその用途ではなく、そのもの自体によって決まると思い込んでいる。
その点、よいデザイナーは、文脈を十分に理解できるよう、どのプロジェクトでも必ず次の2つの疑問を掲げる。
①何を改善しようとしているのか?
②誰のためにそれを改善しようとしているのか?
1つ目の疑問について考えることで、誰もが目標を明確にせざるを得なくなる。2つ目の疑問も1つ目と同じくらい強力だ。デザインすることとつくること、その両方の仕事を課せられた人は、つくるという難問に没頭するあまり、誰のためにその仕事をしているのか、その相手のニーズは何なのかをつい忘れてしまう。そして、問題の細かい点などどうでもよくなってしまうことがある。
つまり、どんな問題を解決しようとしているのか、誰のためにその問題を解決しようとしているのかを明確にするまでは、アイデアの良し悪しを判断するべきではないのだ。
創造と学習のループを繰り返す
先程の2つの重要な疑問は問うだけなら簡単だ。しかし、この疑問への間違った答え方は無数にある。一番よくある間違いは、答えがわかっているという思い込みだ。そう、「私の製品を使う人たちが本当に求めているのは、きっと◯◯だろう」というやつだ。しかし、それはただの勘に過ぎない。そして、勘に頼ると、ありとあらゆる最悪のバイアスが忍び寄り、私たちを迷走させる。
そこで、3つ目の疑問の出番となる。
③プロジェクト全体を通じて、適切な人々のために適切なものを確実に改善していけるようにするには、どうすればよいか?
その答えはループにある。同時に決めなければならない細部はたくさんあるので、一連のステップを何度も繰り返すことが必要になる。1つ1つのループを終えるたびに、作品の質は向上していく。
「創造⇄学習」のループを繰り返すにつれて、「改良」の定義、つまり解決すべき問題の定義がどんどん磨かれていく。