夏のたねや、冬の虎屋
夏は菓子屋の鬼門である。暑いと甘いものが食べたくなくなるし、甘党の人でも食べる個数が減る。これは和菓子、洋菓子で違いがない。お歳暮、クリスマス、正月などの集中する年末年始が、菓子屋の繁忙期である。そこから、ひな祭り、GWぐらいまでは和菓子が売れる。しかし、その後秋に栗が出てくるまでは閑散とするのが普通である。
たねやの先代の父は、これではダメだと考え、夏でも食べたくなる菓子を開発し、水羊羹や梅ゼリーが大ヒットした。関西と関東ではお盆がズレていることも幸いし、仏前にお供えする和菓子が両方の時期に売れた。夏向けの商品を充実させたライバルがいなかったこともあり、夏はたねやの独壇場になった。20年ぐらい前からは、デパートの方々から「夏のたねや、冬の虎屋」と言われるようになった。いまや1年間で最も売上が多いのが、5月連休明けから8月半ばまで。これは業界的に非常に珍しい。
さらに比較的弱かった1月と2月も、最近、クラブハリエ(洋菓子部門)のチョコレートが好調なことで、カバーした。和洋菓子を展開することで、売上が安定している。
たねやはなぜウケたのか
たねやは地元で高級店というイメージを持たれていた。名物は栗饅頭と最中だったが、周囲と比べると倍ぐらいの値段がした。これは進物用として使われることが多かったからである。祖父は冠婚葬祭に力を入れており、お葬式で必ず使われるように走り回っていた。高単価で売れるなら、高価な食材も使えるので、必然的に品質も上がっていく。作り手として打てる手が広がっていったことが、大きなアドバンテージだった。和菓子業界が縮小して倒産が相次ぐ中、地方で生き残れるのは上か下だけ。ただ安さで勝負すると、大手メーカーに勝てない。たねやが成長を続けられるのは、高級路線を選んだからである。
父は、冠婚葬祭で大口注文をとるより、店舗で1人1人のお客様に売れる方へ軸足を移した。当時は近江八幡に1店鋪しかなかった。家訓として「支店出すべからず」という言葉を聞かされていた。そこで、支店を本店以上の存在に育てるとして「すべてが本店」主義が打ち出された。新しく店を出すごとに家族で引っ越し、近所の家を挨拶回りした。
大きな転機は、東京への出店である。当時のたねやは6店舗で、滋賀県ですら誰にでも知られる存在ではなかった。しかし、この時、父は日本橋三越のバイヤーに「虎屋さんの隣で、なおかつそれより大きなスペースを用意して欲しい。」と条件を出した。結果的に条件を三越が飲み、出店は大成功した。当時、和菓子のイメージは「位が高い」と思われていた。そこに、たねやは栗饅頭と最中を並べた。素朴で庶民的な和菓子が並んだことで意表を突かれたのか、これが大ヒットした。「饅頭なんてデパートで売るものじゃない」と思われていたからこそ、逆に目立ったのである。
ヒットの理由はもう1つある。デパートの世界に歳時菓子を持ち込んで、毎週買いに来ても飽きない商品構成にしたことである。当時、デパートで買うような場合「上生菓子」を選ぶのが普通だった。抹茶と一緒に楽しむような高級菓子である。一方、たねやが並べたのは「朝生菓子」。柏餅や団子、饅頭など、朝に作って、その日の内に食べてしまう庶民的な菓子である。
和菓子にも季節がある。歳時ごとに商品を変えれば、毎日毎日がチャンスに変わる。しかも、お客様を飽きさせない。こういう発想は、当時他にはなかった。
伝統を守るとは、変えること
「たねやの栗饅頭はずっと変わらへん」と地元のお客様から声をかけられることがあるが、そんなことはない。代が変わって、ほぼすべての商品の味を変えた。そうした大幅な変更とは別に、小さなマイナーチェンジは日々行なっている。
人々の味の好みは変化している。それに合わせて菓子の味も食感も変わって当然である。伝統とは「続けること」である。続けるためには、時代に合わせて変えるしかない。