ミズノのはじまり
ミズノの創業は1906年。創業者の水野利八が、弟と共に「水野兄弟商会」を開業したのが起源である。水野利八は、その頃はまだ出生名である「仁吉」と名乗っていた。
水野仁吉は、1884年、現在の岐阜県大垣市に生まれ、若くして下積みのために家を出る。12歳の時に大阪の薬問屋へ、その後16歳の時に京都の織物問屋へ奉公に出た。この時に商才が開花し、17歳で織物問屋の番頭に昇進した。独学で簿記を身につけ、経営陣の一員として活躍していた。この頃、はじめて三高(後の京都大学)の学生たちが野球をやるのを目にして、ハマった。この野球観戦の経験が、今日の「野球のミズノ」につながっている。
水野兄弟商会は、兄弟で商品を載せた荷車を引いて、大阪を売り歩くワゴン販売・訪問販売のスタイルだった。靴下やハンカチ、学生向けの洋品雑貨や野球のボールを販売し、ビジネスは順調に成長。1907年には「オーダーメイドの運動服装」の販売を開始し、これがヒットした。スポーツが急激に人々の暮らしの中に普及し始めたタイミングに当たる。
最高の品質を求める
水野利八はミズノが成功するためには、品質のいい製品を作り、お客様に信用してもらうことが大切だと考え、材料を仕入れる人にも型紙のデザインをする人にも、縫製を担当する人にも、口を酸っぱくして「ええもんつくんなはれや」と声をかけてまわった。
利八が亡くなった後も、その口癖を忘れることなく、常に最高の品質を求めるために「ええもんつくんなはれや」の頭文字「え」を全国にあるミズノの工場のいたるところに掲示している。
機能を追求する
ミズノは売上の約30%が海外で、国内が70%。総合スポーツメーカーなので、より幅広いスポーツと商品をつくっている。施設などの運営や建設も多々行い、街づくりや生活とも距離が近い。
ミズノはスポーツ用具づくりと開発が軸であり、得意なので、スポーツ用品業界では「用具のミズノ」「靴のアシックス」「衣類のデサント」とよく言われている。しかし、ミズノの1番の強みは、幅広くスポーツをやっているところである。
ミズノのデザインは機能美。機能を追求したカタチと表現である。ミズノは日本代表のユニフォームを多数手がけているが、国旗のワッペンなどもプリントにすることで「1gでも軽く」を追求する。
長期的な付き合いをする
ミズノを語る上で欠かせないキーワードが「長いお付き合い」である。これは契約アスリートに対しても、取引先、外部のパートナーにも当てはまる。
ミズノの地域の営業担当は、今日も日本の隅々の野球少年団などの様子を見に行ったり、大小かかわらず色々な大会に顔を出したりしている。こういったミズノ社員の行動力の中、稀に「地元の逸材」を発掘することもある。その情報は地域のスポーツ用品店・ミズノの地域担当・本社で共有され、未来のスター選手の成長を見つめていくことになる。
総じて他の側面でもミズノは長い時間と積み重ね、細かな仕事や情報を大事にする。一般的にスポーツ用品のブランドは、旬な選手と大きな金額で契約をするイメージがあるが、ミズノの場合、選手の発掘や契約は多くのケースで地道である。
選手とミズノの契約は、いくつか異なる形がある。
①物品提供:ミズノが用具だけを提供する。
②社員選手:選手がミズノの社員として給料を受け取る。仕事は練習と試合である。
③アンバサダー契約:ミズノが選手に契約金を支払い、ブランドの大使役になってもらう。
ミズノならではの「長いお付き合い」を象徴するのが、選手の現役引退後もアンバサダー契約を継続したり、選手のセカンドライフの支援をすること。普通は引退したら、そこで契約は終了する。
ミズノは元プロアスリートたちと、引退後も「ミズノビクトリークリニック」(小学生の指導)など、講師をお願いするという形で、セカンドライフを応援している。