ドラッカーにも認められたマーケティングの元祖
三井越後屋は、1673年に現在の日本橋に呉服屋として開業した。同時に京にも仕入れ専門店を開いた。小さな江戸店はあっという間に大繁盛店になり、そこから幕府御用達店になり、江戸一の豪商になった。三井高利は、現在にも応用できるビジネスモデルを開発し、卓越したマーケティングを実行することで、江戸のビジネスにイノベーションを起こした。
①「番傘」の無料貸出
越後屋のロゴマークが大きく入った傘を常に大量に準備し、雨が降ると、店頭でその傘を貸し出すサービスを実施した。当時、傘は大変高級で、多くの町民は濡れるか雨宿りして止むのを待つしかなかった。にわか雨が降ると、江戸のあちらこちらで「越後屋」のマークが入った傘が開いた。これは大きなブランディング効果があった。
②「店頭販売」という革命
・「屋敷売り」から「店前売り」へ
当時の呉服商は、得意先の屋敷を訪ねて商品を販売するのが主流だった。越後屋が採用した「店前売り」は、お客にとっては、必要な時に店に出向き、色々な商品を見比べることができるメリットがあった。
・「掛け売り」から「現金正価販売」へ
江戸では、盆と暮の年2回の掛け払いが一般的だった。これは資金の回転が悪く、貸倒のリスクがあった。越後屋は、この慣習を店舗の商品に値札をつけることで、現金払いに変えた。そのため低価格での販売を実現した。
・「一反単位の販売」から「切り売り」へ
越後屋はそれまで常識だった「一反単位での販売」から。客が必要な分だけ反物を切って販売する「切り売り」を採用した。これによって、親が子供に買うニーズを取り込み、結果、幼少期から越後屋の顧客になり、のちに子供が結婚する時にも利用してもらえるようになった。
・「時間がかかる仕立て」から「即座仕立て」へ
納期まで時間がかかっていたものを、即座に仕立てて渡す「即座仕立て」を実施。お客は再び来店する手間がなくなった。
③「現金安売り掛け値なし」
「どんなお客さんにも値札通りの安い価格で提供します」というキャッチコピーで、日本初と言われる引札(チラシ)を使って大々的に広告を実施した。この引札は、江戸中(当時の人口約50万人)に5万枚以上も撒かれたと言われる。結果、売り上げは3ヶ月にわたって60%増を記録した。
④「暖簾印」によるブランドイメージ統一
暖簾や看板、風呂敷や番傘にもロゴを使い、ブランドイメージを統一した。このマークは段々と浸透していき、後に幕府の御用達となってからは、信頼の証となった。
⑤今までにない「商機」を創り出す
1863年、三井高利は両替店を作り、1865年には京でも両替商を開き、東西間の為替業務を行った。当時は、江戸と上方で使われる貨幣が違うことで、様々な問題が発生していた。江戸での売上は金貨だったが、京の仕入れは銀貨。両替コストや為替変動リスクが大きかった。この両替商の事業は、のちに経済活動が活発化するにしたがって、巨大な富を生んだ。そして、両替にとどまらず、お金の預かり、貸し付け、送金など、現在の銀行の役割を果たすようになった。
三井高利は「商いの道、何にても、新法工夫いたすべく候(商売をするなら何にでも創意工夫しなさい)」という言葉を残している。高利は「これからは町人が消費の主役になる」と分析し、顧客をこれまでの大名・旗本・豪商などの富裕層から、町人に替えた。さらに、旧来の販売法を破壊し、町人たちが買いやすいような価格や販売方法に変えた。その結果、越後屋は江戸の町民から圧倒的な支持を得た。