運は創るもの 私の履歴書

発刊
2015年8月26日
ページ数
320ページ
読了目安
258分
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家具チェーンのニトリ創業者の波瀾万丈の物語
家具チェーン「ニトリ」の創業者の物語。勉強嫌いの落ちこぼれだった似鳥氏が、家具店を開業してからの企業経営の苦労や波瀾万丈の人生を語った一冊。

勉強嫌いの落ちこぼれ

子供だった昭和20年代は本当に過酷だった。家では殴られながらこき使われ、学校ではいじめに遭っていた。稼ぎの少ない父に対して、生活資金はヤミ米販売に頼っていた。クラスでも有数の貧乏一家で、着ている衣服はつぎはぎだらけ。当然勉強はできない。通信簿も5段階の1か2ばかりだった。父は余り成績の事を言わなかった。「おまえは頭の悪い人間が結婚して生まれた子だ。だから勉強ができないのは当り前だ。だから人より努力するか。人のやらないことをやるかだ」と言っていた。

中学校へ行ってもいじめられる境遇は変わらない。勉強は相変わらずで高校入試はことごとく落ちた。最後のとりでは北海道工業高校だったが不合格だった。そこで「何か手を打たなくては」と考えた。ヤミ米の販売先の友人が北海道工業高校の校長だった。夜中に米1俵を届け、合格したいと訴えると、補欠合格となった。

中学と高校はカンニングばかりしていた。父は自分がやっていたコンクリート会社を継がせるつもりだったが、親の仕事から逃げるために何とか札幌短期大学に滑り込んだ。短期大学卒業後、編入試験でなんとか北海学園大学に合格した。

 

周囲になかった家具店を開業

大学を卒業後、そのまま父の会社の似鳥コンクリート工業に入社。ところが働いてまもなく盲腸を患った。回復は思わしくなかったが、親は働けという。傷は痛む。そして家出に踏み切った。住み込みで働ける仕事を探し、バスにつける広告をとる営業職につくが、ノルマを全く達成できない。6ヶ月でクビになり、ふらふらした後に実家に帰る。

ところが父は、似鳥コンクリート工業は毎年赤字で将来性はないと会社を清算。この時、所有する30坪の土地・建物で商売でもやろうと決めた。周辺は割と住宅も多い。衣食住の内、周辺を探すと家具屋だけがない。家具屋は当時、札幌中心部にしかなく、競争がない状況だった。家具の将来性や可能性など何も考えない、食べていくための生業として家具販売を選んだ。

 

内助の功で軌道にのる

家具問屋を探し、1967年「似鳥家具卸センター北支店」を開業した。ところが、月額販売額60万円を下回ると赤字だが、40万円ぐらいしか売れない。極度のあがり症で接客ができない。お金がなく、食べるものにも困る始末だった。窮状を見かねた母がある日、結婚すればいいと提案してきた。8回目の見合いで、出会った家内が商売上手だった。おかげで自分は配達と仕入に専念でき、この役割分担が似鳥家具卸センターを成長させる原動力になった。もし自分が販売上手だったら、ただの優良店に終わっていた。仕入れや物流、店作りに集中した事で企業として羽ばたく事ができた。

 

ロマンとビジョンを掲げて先をいく

1号店が軌道に乗り、1971年に2号店を出店。250坪の店で北海道では初となる郊外型の家具店。当時、一番大きい家具店の2倍の大きさだった。ところが、まもなく2号店から500mぐらいの場所に1200坪の家具店が出店し、売上が減少し、資金繰りが悪化。赤字になり金融機関から融資をストップされた。このままでは倒産すると鬱状態な日々が続く中、米国の家具店を視察するセミナーに参加した。

米国の家具店は、品質や機能も素晴らしく、用途や価格帯も絞り込まれている。「米国風のまねをしてみよう」。顧客のニーズを先取りする事で、競合店にも勝てると実行した。米国のような豊かな生活を日本で実現したい。そのための企業に育てようという明確なロマンが芽生えた。そこで30年で何ができるのかを考え、長期計画を初めて作った。ゴールから今の会社のありようを考えた。

創業期は苦難だらけだった。ニトリの知名度を上げるには安売りしかない。当時は問屋の力が強いし、他社より安く仕入れる事は難しい。そこでメーカーから直接家具を買い取るなど、仕入れ先を少しずつ増やしていった。