世界は馬鹿げたアイディアでできている
24歳の私には馬鹿げたアイディアがある。唯一残ったのはこの力強い革新だった。世界は馬鹿げたアイディアでできているのだと。1962年のあの日の朝、自分にこう言い聞かせた。馬鹿げたアイディアだと言いたい連中には、そう言わせておけ、走り続けろ。立ち止まるな。目標に到達するまで、止まることなど考えるな。
大学の最終学年時、起業についてのセミナーがあり、靴に関するレポートを書いた。初めはただの宿題だったそのレポートに、すっかり夢中になってしまった。ランナーだった私は、ランニングシューズについて知っていたし、ビジネスについても詳しかったので、かつてはドイツの独壇場だったカメラ市場に日本のカメラが参入したことも知っていた。レポートの中で、日本のランニングシューズにも同じように可能性があると力説した。そのアイディアに強い興味を持ち、刺激を受け、そして虜になった。
オニツカ訪問
スタンフォード大学時代は、毎朝走りながら、そしてテレビのある部屋の隅で父親に打ち明けるまで、ずっと考えていた。日本に行き、靴会社を見つけて、私の馬鹿げたアイディアを売り込もうと。そして、旅行に出た。
東京には父の知り合いが何人かいて、そこで『インポーター』という月刊誌を発行している2人の元米兵のことを聞き、訪ねた。自分の馬鹿げたアイディアを話すと、2人は興味を持ち、輸入を考えている靴会社があるのかと聞かれた。私はタイガーというブランドが気に入っていると言った。神戸にあるオニツカという会社が製作しているブランドだ。2人から日本でビジネスをする時の心得を聞いて、オニツカに電話して、アポイントを取った。
オニツカを訪れ、スタンフォード時代のプレゼンをそのまま引用した。彼らは一斉に質問を浴びせた。私はすぐにサンプルを送ってくれるよう頼み、50ドルの前払金を約束した。
バウワーマンと共同創業
1964年、12足のシューズを受け取った。この内2足をアメリカで最も知られた陸上のコーチであり、オレゴン時代のコーチだったビル・バウワーマンに送った。彼は「あの日本のシューズだが、すごくいい。私を契約に加えてくれないか」と言い、パートナーシップを結んだ。その日、オニツカに手紙を書いて、タイガーシューズのアメリカ西部での独占販売を任せてもらえないかと要請し、至急300足を送ってくれるように発注した。1足3.33ドルで1000ドルを父は貸してくれた。数日後、西部でのオニツカの独占販売を任せる手紙を受け取った。
私は大西洋岸の北西部を走り、様々な陸上競技会に向かった。レースの合間にコーチ、ランナー、ファンらと談笑し、シューズを見せる。反応は上々で、注文が間に合わなかった。シューズを完売させ、銀行に借りた金を返すと、オニツカに前回の倍の発注をし、また金を借りた。1967年の終わりには、バウワーマンがジョギングについて書いた本が100万部も売れて、ブームを起こし、ランニングという言葉の意味を変えた。会社は創立から5年連続で前年比の収益が倍になった。
ナイキの誕生
1971年、オニツカは、これまで自分たちが開拓した販売店に対して、直営の販売店にならないかと裏で動き始めた。そこで、貿易会社の日商岩井と提携し、オニツカと手を切ることにした。オニツカに代わる製造業者を見つける。そして、新製品のナイキが生まれた。ギリシャの神、勝利の女神の名だ。
アスリートからの支持が重要であることはわかっていた。アディダスやプーマなど他のブランドと来そうには、トップアスリートに身につけてもらい、宣伝してもらわなければならない。1976年のオリンピックでは、複数の人気競技でアスリートがナイキを履いた。そして、売上は1400万ドルに達した。