「知っている」ことはいいことか?
私達自身の脳は、知識があること、確信できる事を望む。最近の神経科学研究によれば、人間の脳が最適な機能を果たすためには確信が必要である。確信が揺るがされると、神経学的に身体的攻撃と同じ苦痛を感じる。
私達は知識を貪欲に求める。知識は素晴らしいものだ。知識があれば褒美が得られ、尊敬され、昇進して、金持ちになり、健康になり、自信もつく。しかし、知識にもデメリットがある。知識が足枷になりかねない場面でも、私達は知識にしがみつく。そして、新たな学びと成長を阻まれるという、パラドックスに陥っている。
専門性を評価されている人間は、往々にして、その領域の外をしっかり見ようとしない。そうしようというインセンティブがない。また、専門性が高くなればなるほど、視野が狭くなる場合もある。「知っていること」に焦点を置くあまり、知っている事を疑ったり、知らないと認めたりする事ができなくなる。
「知っていること」は常に変化する
急速に変化する世界を理解するために,私達は往々にして既存の知識に頼る。その知識はすでに有効でも正確でもないかもしれないのにである。世界はすさまじいスピードで変化しているが、私達の脳内では、世界に対する認識や事実は静止したままだ。そのため、私達の知っていること、知っていると思っていることは、どんどん無価値・不正確になっていく一方である。
知識が広がれば広がるほど、知らない事は少なくなると私達は考える。問題はこの発想が「知りうること」という宇宙の広さは固定だ、という想定に基づいている点にある。
「知らない」事を恐れない
私達が未知を恐れる理由の1つは、自分自身と向き合わざるを得なくなり、自分の弱さ、不完全さをつきつけられるからだ。未知との境界線に立たされた時の一般的なサインとして、人は恥ずかしい気持ちになる。そこで次のようなリアクションをとろうとする。
①主導権を握り、無力感を追い払いたくなる
②受動的な態度と自滅行為をとる
③分析したり、より多くの情報を集める事で逃げようとする
④悲観的思考に陥る
⑤表面的な答えを出す事で、知らない事の居心地の悪さを避けようとする
⑥抵抗感を抱く
既知と未知との境界線に立たされた時、自分はとっさにどんな反応をしてしまうのか。それを心得ていれば、意識して境界線の向こうへ踏み込み、その先を探りながら、新しいスキルや能力を育てていく事ができる。
逆説的だが、知らないからこそ学びと新しい知識に結びつく。「わからない」と認めるからこそ、もの学ぶ事ができる。「知らない」を「ない」で捉えるのをやめ、そこには機会と可能性が「ある」と捉えなければならない。
「知らない」という姿勢で対峙する
知識、技術、競争力のような「ある」を追求する能力(ポジティブ・ケイパビリティ)と、沈黙、忍耐、疑い、謙遜のような「ない」を受容する能力(ネガティブ・ケイパビリティ)を組み合わせた時に、初めて新しい学びと創造の余地を生み出せる。ネガティブ・ケイパビリティは次の4つに整理される。
①カップをからっぽにする
頭が考えでいっぱいになっていれば、新たな学びを招き入れる事も、目の前に生じた現実をそのまま受け入れる事もできない。状況を先入観で判断しない。
②見るために目を閉じる
知識の介入をあえて排除し、知らない姿勢で臨む事によって、見ていなかった場所に存在する知に心を開く。
③闇に飛び込む
まず闇に槍を投げ、知らない世界にある可能性へと踏み込む。それから技術的スキルや専門知識を活かして、直感で掴んだものを逃さず、磨き、命を与えていく。
④「未知のもの」を楽しむ
慎重になりすぎず、時には信じて飛び込み、旅の進むままに身をゆだねる。