テンセント 知られざる中国デジタル革命トップランナーの全貌

発刊
2019年10月15日
ページ数
576ページ
読了目安
822分
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テンセントはどのようにして中国最大のインターネット企業になったのか
中国最大のインターネット企業テンセントの創業物語。中国のインターネット黎明期からどのようにしてイノベーションを生み出し、急成長してきたのか、その歴史が書かれています。

創業前

大学4年になると、学生たちは企業でインターンシップに参加する。馬化騰(ポニー・マー)は深圳の黎明電脳網絡有限公司へ行った。当時、中国の南部で技術レベルが最も高いコンピュータ会社だった。この会社で、馬化騰はプロダクトを初めて生み出した。GUIの株式相場の分析システムだ。

1993年、馬化騰は同級生に誘われ、当時爆発的に成長していたポケベルサービスを手がけていた設立1年の潤迅に入社した。入社した当初は研究開発部門で呼び出しシステムのソフトウェアプログラムを書き、後に事業部門へ異動して、各地の呼び出しセンター設置に携わった。

1994年、馬化騰はFidoNetという新しいものに突如どっぷりはまる。1984年にアメリカで誕生した一種のBBS(電子掲示板)設置用プログラムだ。電話回線で接続し、メールを転送する通信ネットワークである。

間違った出発点

ネットを使いだしてから半年近くたった頃、馬化騰は自分の掲示板サイトを立ち上げた。馬化騰のプロダクト意識とユーザー体験に対する理解は、この時期に形成された。

1998年、馬化騰は同級生だった張志東と再会し、起業に誘った。登場してまもないインターネットを普及が進んだポケベルと組み合わせて、ソフトウェアシステムを開発する。端末でインターネットからの呼び出しを受信して、ニュースやメールなどを受け取れる。

インターネット創世記の中で、テンセントは間違いなく最も目立たない存在の1つだった。ポータル、検索、eコマースといったどの流行りにも属さず、自身を定義できなかった。その出発点すら間違っていた。インターネットとポケベルを合体させた「ワイヤレスネットワーク呼び出しシステム」はダメなプロダクトだった。成長が見込めない産業においては、どんなイノベーションもそれに見合うリターンを得るのは難しい。馬化騰のイノベーションはすべて、皆がポケベルを使い続けることが前提だった。致命的な問題として、1998年以降は携帯電話の普及が進んでおり、ポケベルは時代遅れで打ち捨てられる通信製品になりつつあった。業界の重大な転換点で、馬化騰は立ち遅れた側に立っていた。

偶然から巨人が生まれた

馬化騰のチームがICQ開発を始めたのは、偶然の出来事だった。ICQは、インターネット上でのチャット、メッセージ送信、ファイル送信などをサポートしている。1998年、馬化騰は広州電信の情報ポータルサイトを見て回っていた時、たまたま入札募集情報を見かけた。広州電信がICQに似た中国語のリアルタイム通信ツールを購入したいので、競争入札に付すという。馬化騰は参加することに決めた。競争入札はテンセントに何のチャンスも与えなかったが、馬化騰はICQを開発する決意をした。この時点では、これが「小さな巨人」に成長するとは決して考えてなかった。

テンセントがOICQを開発していた頃には、ICQがとっくに成熟して中国市場進出も果たしていたし、漢字版ICQも3製品あった。なのにテンセントがトップになれた理由は1つある。1つは競合たちの気の緩みと弱々しさ、2つ目は自社技術のマイクロイノベーションだ。テンセントは、技術面で後から振り返れば大成功と言えるマイクロイノベーションをいくつか行った。ユーザーのデータと友人リストをクライアントからバックエンドのサーバーに移し、職場やネットカフェのPCから接続を可能にした。ソフトウェアのサイズを小さくし、ダウンロード時間を短くした。

OICQのユーザーは右肩上がりに成長し、9ヶ月で100万を超えた。OICQは、チャイナモバイルとの提携により、携帯電話のショートメッセージとして利用され、爆発的にユーザーを増やしていった。