美術の経済 “名画”を生み出すお金の話

発刊
2020年10月22日
ページ数
292ページ
読了目安
319分
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アートとお金の話
落書きのような作品になぜ高額な値段がつくのか。美術家たちはどのようにして評価されていくのか。
アートに関わるお金の話を、職業、画商、美術館など様々なテーマで紹介している一冊。

なぜ落書きのような作品が高値で落札されるのか

2015年11月11日、ニューヨークで開かれたサザビーズの美術品オークションで、サイ・トゥオンブリーという米国出身の現代美術家の作品「無題」が約7050万ドル(約87億円)という高値で落札された。トゥオンブリーは1982年に米国で生まれ、2011年にローマで亡くなった現代美術家だ。

その作品を写真などで見ると、落書きのようにしか見えない。落書きに見ようと思えば見える作品を多く残した作家の代表格はピカソだが、トゥオンブリーはさらにその先を走っている。87億円の「無題」は、ボールペンの試し書きのようなイメージだ。しかも、画材はクレヨン。まさに子供の落書きなんじゃないかと思う人がいてもおかしくはない図柄である。誰にだって描けそう。少なくとも、技術の凄さは微塵も感じない。特段美しさが際立っているようにも見えない。

 

美術というのはかなり特殊な経済学理論のもとで成り立っている。最も大きな点は、美術品が普通は1点ものであることだ。1点しかないものはどうしても値段が高くなる。ただこれだけでは、トゥオンブリーの作品が高値で落札された理由にならない。1つだけわかるのは、あの作品をあの価格で買った人がいたということである。そして、トゥオンブリーの作品が、それなりの評価を美術の世界ですでに持っていることだ。

トゥオンブリーの表現は、絵を描く際の人間の純粋な「初動」を突き詰め、エッセンスを抽出したものである。純粋性の追究は、哲学にも近いことを絵画でやっており、大きな意義がある。だからこそ価値がある。何よりも重要なのは、他に同じことをやっている美術家がいないということだろう。

こうした作品の特性が理解され、評価され、必要な人々の間に広まり、経済力を持った人々に活動を起こさせるといったことがあってこそ、87億円となる。美術の世界で面白いのは、最初理解を得られていないものが後に高く評価されるケースが当たり前ということである。ゴッホの絵は生前は1枚しか売れなかったし、現代美術家の村上隆も困窮生活が続いたという。

 

美術家はどのようにして認められていくのか

才能のある美術家であっても、作品を売るだけで生計を立てている姿を見かける例はそれほど多くない。一方、美術家が美術市場で自分の作品を扱ってもらえるようになるためには、そんなにたくさんの人々に認められる必要はない。経済面でいえば、気に入ってくれた少数のコレクターが長く堅実に買い支えてくれることが、美術家として生き延びる道につながるはずだ。

但し、先鋭的な美術はなかなか人々の目には留まりにくいし、世の中の価値観を先行しているため評価が定まりにくく、値段もつきにくい。いかに時代が進もうと、先端を行く中に、その時点で多くの人の支持を得にくい種類の表現があるのは、時代の何歩も先を行く美術の宿命だ。それを実際に掘り起こせるかどうかは、人々がそれなりの「眼」を持ちうるかどうかという話にもなり、一筋縄では行かない。美術家の多くは、いつの時代もたくましく生きる必要がある。

 

そもそも現代の美術家は、どのようにして認められていくのか。以前は日展や日本美術院などの美術団体の公募展に応募するのが主たる登竜門だった。それぞれの団体の中で実績に応じて会員や会友などのポジションを得ることで弟子を得たり画商がついたりといったことが経済的な基盤の成立につながっていた。但し、大規模な団体展は表現や技法に保守的な傾向が強いため、独創性を旨とする先鋭的な現代美術家たちの価値観とは相容れない。

現代美術家たちの登竜門には、岡本太郎現代美術賞以外に、東京都現代美術館の「MOTアニュアル」や森美術館の「六本木クロッシング」などキュレーターが作家を選ぶ企画展で平面以外の作品も多く見ることができるようになり、認知度と評価を高めていく場として機能している。有能な作家には早くから現代美術ギャラリーがつき、個展やアートフェアへの出品機会を積む。