死の講義

発刊
2020年9月30日
ページ数
288ページ
読了目安
352分
推薦ポイント 4P
Amazonで購入する

Amazonで購入する

世界の人々は死んだらどうなると考えているのか
人は死んだらどうなるのか。世界の主な宗教の死に対する考え方を紹介している一冊。
死んだらどうなるかを自分なりに考えて、死んだらどうなるかを自分で決めることで、思うように死ねると説いています。様々な死に対する考え方を知ることができ、今の生き方を振り返るきっかけになります。

死んだらどうなるのかを自分なりに考えよ

人間は死ぬ前に、死んだらどうなるのかと自分なりに考え、納得し、それを織り込んで生きてきた。死んだらどうなるのか。それは生き方の一部、人生の一部である。死んだらどうなるのか、死んでみるまでわからない。それなら、死んだらどうなるのかは、自分が自由に決めてよい。

 

これまで人類に大きな影響を与えた宗教は、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、儒教、仏教の5つ。それぞれ、人間は死んだらどうなるかについて、しっかりした考え方を持っている。死んだらどうなるのか、自分の頭で考えてみようとする場合、まず、これらの宗教の考え方が参考になる。

 

一神教の死の考え方

一神教とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。どれも「神が天地を創造した」とする。世界は神の意思によって存在する。そして、生命は神が人間に与えたと考える。

神は世界を造った。そして時が来れば、世界を壊す。これを終末という。そして、人間だけが選ばれて神に救い出される。終末は人間にとって喜ぶべきことである。人間には新しい住処が与えられ、赦されて永遠に生きる。では誰が赦されて、神と一緒に生きるのか。それを決めるのが、最後の審判である。

キリスト教とイスラム教に共通するのは、人間は例外なく皆、復活すると考えていることだ。ユダヤ教は人間が復活するかどうかについて論争があった。はじめユダヤ教は、人間は死ねば土に還ると考えていた。

 

インド文明の死の考え方

バラモン教、ヒンドゥー教、仏教には共通するインド文明の思考が根底に横たわっている。インド文明の生み出した宗教のうち、仏教が中央アジア、中国、朝鮮半島を経て日本に伝わった。日本の人々は大きな影響を受けた。

インドの人々の考え方の基本は、因果論である。原因があって結果がある。そして、原因がなければ結果がない。とてもシンプルな考え方である。因果論の反対が、目的論である。一神教の考え方は目的論である。目的論は、途中経過がどうあれ、最終的には決まった状態が実現するという考え方。全知全能の神がいれば、神の意思で、思い通りの状態が実現する。それが終末であり、最後の審判であり、神の王国であった。

因果論には、目的論の「最終的な状態」にあたるものがない。出来事は、どこまでも因果関係を辿って起こり続ける。終わりがない。出来事の因果連鎖は網の目のようにこの世界を覆っている。

インド文明は、「真理を覚る」ことに最高の価値を置く。バラモン教もヒンドゥー教も仏教もこの点は同じだ。真理を覚るとは、この世界のあるがまま、すなわち因果関係の連鎖のネットワークを認識することである。インドの宗教は「瞑想」によって真理に到達しようとする。瞑想で真理に到達できるのは、インドの人々が「宇宙方程式」が成立すると考えているからだ。この世界と「私」が対応していること。世界と自分は集合としては異なるが、中身はそっくりということだ。

梵我一如とは、梵(宇宙)と我(人間)とが同じものだという考え方。それが真理の中身である。これは、人間は自分が生き物だと思っているが、本当はただの因果連関にすぎないという。即ち、真理を覚れば、人間は人間でないとわかる。人間は生き物ではないから死ぬことはない。人間の生死は、この世界の法則に従って起こる。その法則を体現すれば、生死を超越する。

 

この真理に誰がアクセスできるのか。それを巡って人間の間に序列が生まれた。この序列は、死ぬと生まれ変わってリセットされる。このアイデアとして輪廻が継ぎ足された。輪廻は、人間は死んだ後またこの世界に生まれるという信念だ。インドの人々は輪廻を信じる。輪廻によって別な人間や動物に生まれ変わる、その生まれ変わり方は、正しい因果法則に基づいている。

ヒンドゥー教には、人間が死んだらどうなるかについて、2つの違った考えが混じっていることがわかる。1つは人間はそもそも生き物でなく、人間など存在しないこと。もう1つは死んだら別の人間か生き物に生まれ変わる輪廻の考え方。インドの人々の日常は、真理を覚ることはさて置き、よりよく生まれ変わることを優先する。

 

中国文明の死の考え方

中国の宗教は儒教、道教、仏教の3つが重要だ。この3つは死について考え方がそれぞれ違う。中国の人々は、親はやがて死に、祖先の列に加わると思っている。祖先がいなければ今の自分はなく、社会的存在もない。中国の人々は、自分はやがて死に、祖先として子孫に祀られると思っている。中国の人々にとって、死者はこの世界で生きてきた血縁関係をそのまま保存した存在だ。抽象的な霊魂になって、死者の国で自由に暮らすわけではない。廟の中で子孫を見守っている。祖先として祀られているから安心だというのは、後世の子孫の観点から死者である自分をみることである。死を後世に生きる者から眺め、死そのものから目を背ける仕組みなのだ。

 

死者を死者として見つけるのは道教である。中国では人間は死ぬと「鬼」になると考える。死んで鬼になると、地獄に下る。地獄は地上とそっくりで、皇帝(閻魔)がいて、官僚機構があって、人々を統治している。道教は、地獄を死者の世界としてありありと描く。