ぼくは挑戦人

発刊
2020年8月26日
ページ数
240ページ
読了目安
276分
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差別やいじめを乗り越え、世界で活躍するまでのプロパフォーマーの物語
ジャグリングを用いた芸をするプロパフォーマーとして世界で活躍する「ちゃんへん」さんの生まれ育ちから、ジャグリングとの出会い、プロパフォーマーとしての活動、自身のアイデンティティー探しの旅までを綴った一冊。
在日朝鮮人として、自らのルーツやアイデンティティーに悩み、葛藤する中で見つけた、人としての強さや大切にすべきことが書かれています。

いじめと差別

1985年、京都府宇治市に所在を置く在日韓国・朝鮮人が多く住む町、通称「ウトロ地区」で生まれた。第二次世界大戦真っ只中の1940年に、京都飛行場と飛行機工場の建設工事が決定。工事には約2000人が従事し、その内1300人が「人夫募集」によって集められた朝鮮人だったという。朝鮮人は自ら仕事を求めて来たが、元々日本の統治によって土地を取り上げられ、故郷での生活が困難となり、日本への移住を余儀なくされた者が多い。1943年に建造された飯場には、工事従事者とその家族が生活し始め、これが「ウトロ地区」の前身となった。

 

小学校に入ると、いじめと差別が始まった。「クラスに朝鮮の人がいる」と親に言うと、一部の親が「朝鮮人とは喋るな」「朝鮮人とは関わるな」と指図したり、中には「朝鮮人は日本人の敵やからやっつけろ」とたきつける過激な親もいたという。

ひいばあちゃんは在日コリアンでは珍しい平壌出身だ。母親にいじめが発覚した日、ひいばあちゃんの家に行った。ひいばあちゃんは、皿に盛った林檎を差し出し、「モゴ(食え)」と言った。

「ナニジンとかはカンケイないんやで。ヒトはな、イジメられたくなかったら、ヒトよりドリョクせなアカン。だから、いつかジブンがガンバれるもんにデアったら、それをイッショウケンメイガンバってイチバンになりなさい。イチバンになったらな、イジメられるどころか、オマエをマモってくれるヒトがタクサンアツまってくるんや。だからそういうジンセイアユみなさい」という言葉を贈られた。

 

ジャグリングとの出会い

ジャグラーとしての礎を築くことになる「ハイパーヨーヨー」を初めて目にしたのは、漫画雑誌『月刊コロコロコミック』だった。読者プレゼントのコーナーで見かけて、応募したところ当たった。そして技ができるまでとことん練習した。

当時はブームの真っ只中で、あちこちでハイパーヨーヨーの大会やイベントが頻繁に行われ、積極的に参加した。京都では、出場したすべての大会で優勝するほどの腕前になっており、学校ではヒーローになっていった。この頃から、かつて自分を無視していたクラスメートも、友達として接するようになってきた。

 

中学校になっても、ハイパーヨーヨーの熱は一向に冷めず、むしろ加熱していた。春休みのある日、親の仕事について行き、街を散歩していると、ジャグリングショップを発見した。当時は「ジャグリング」という言葉すら知らなかった。そこでジャグリングの世界チャンピョン「アンソニー・ガッド」の映像を観てぶっ飛んだ。自分も将来、舞台に立って人前で演技する人になりたいと思った瞬間だった。

ひいばあちゃんの「いつかジブンがガンバれるもんにデアったら、それをイッショウケンメイガンバってイチバンになりなさい。」という言葉が蘇った。ジャグリングに出会うまでは、いじめられていた反動で暗い性格だったのが、ジャグリングを始めてからは少しずつ本来の明るい性格に戻っていった。

ジャグリングを始めた当初は「1番になりたい」「カッコをつけたい」そんな動機だったが、ジャグリングをやり始めて少し経つと、それ以上に本質的なことに気づいた。単純ではあるが、反復練習をすると、できなかったことが、やがてできるようになっていく。自分自身が成長していることが実感できて楽しいのだ。

 

私たちは何人か?

中学校に入学して以来、週末は「バンバン」というおもちゃ屋にほぼ毎週通っていた。そこで、2000年にサンフランシスコで行われるパフォーマンスコンテストを知った。アメリカに行きたいと、おかんに言うと、テーブルを挟んで座らされた。

「私たち、何人? 北朝鮮の人間なのか、韓国の人間なのかどっちや?」

在日コリアンは、自らが国籍を取得しにいかない限りは無国籍状態である。国籍を選ぶにあたって、おじいちゃんとおばあちゃんにも相談する必要があった。「南北分断。離散家族。朝鮮戦争。お前、50年前、アメリカとソ連がわしらの国にやったこと知ってんのか? お前が国籍取るということはな、わしらの国は戦争で分かれたことを認めることになるんやぞ! お前は、戦争という手段を使って一部の人間だけが幸せになること認めんのか!」

日本は戦後かもしれないが、朝鮮民族はまだ戦争を抱えていた。

 

韓国国籍を取得。サンフランシスコへ行き、大会で優勝。この経験で大きな自信がついた。プロパフォーマーになるための明確な道がなければ、自分で道を切り拓けばいい。その後、大道芸W杯で「ヤジウマ人気投票1位」を獲得したことで、仕事の依頼が増えていった。