すべての始まり9・11愛国者法
アメリカで愛国法が発効したのは、9・11からわずか1か月後の2001年10月のことである。この法律は、政府による監視を強化すると同時にアメリカ人の市民権を制限し、犯罪組織の資金の流れやドルのマネーロンダリングを阻止するための新たな銀行ルールを定めている。その結果、コロンビアの麻薬カルテルは、ヨーロッパへの新たなコカイン密輸ルートの開拓と、新たなマネーロンダリングの方法を開発する必要に迫られた。彼らが新たな密輸ルートとして選んだのは、品物を西アフリカに運び、そこからサハラ砂漠を縦断するルートだった。いち早くこのビジネスに乗り出したのが、イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)である。のちにAQIMは、外国人の誘拐や移民の密入国斡旋にも手を拡げている。
9・11が起きるまでは、世界の麻薬取引の利益は大半がアメリカで洗浄され、クリーンな米ドルに替えられていた。麻薬取引の80%は、ドル建ての現金決済だった。そのドルをアメリカ国内に運び込む主なエントリーポイントとなっていたのは、西インド諸島にあるオフショア金融機関や偽装銀行である。だが愛国者法の制定により、このプロセスは極めて困難になった。
西アフリカでの麻薬ビジネスの横行
愛国者法はコロンビアの麻薬カルテルにとって大打撃だった。この問題を解決したのが、サルヴァトーレ・マンキューゾである。彼はコロンビアに渡ったイタリア移民で、テロ組織「コロンビア自警軍連合」のボスだった。彼はコロンビアの麻薬カルテルと、イタリア半島南部カラブリア州を拠点とする犯罪組織の間を取り持ち、ジョイント・ベンチャーを成立させた。この犯罪組織は、ヨーロッパでのコカイン販売から、マネーロンダリングまで麻薬に関するフルサービスを提供している。こうして通貨ユーロが麻薬取引の標準通貨の1つになった。9・11の後、イタリアは、ヨーロッパにおける麻薬取引の重要な中継ハブとなり、マネーロンダリングの拠点となった。
だが、コロンビアからヨーロッパへコカインを直接運ぶことは、難事業であった。9・11後、ヨーロッパでも警備保安体制が強化されているし、マドリッドやロンドンではテロが発生している。そこで新たな中継地として麻薬カルテルが目を付けたのが、ベネズエラと西アフリカである。アフリカにおける中継ハブとしてカルテルが選んだのは、ギニアビサウである。カルテルは、コカインをトラックやSUVに積み込み、サハラ砂漠を縦断する。この方式での運搬は2002年か2003年。これは、後半なネットワークを持つアフリカ密輸業者にとっては容易い仕事だった。密輸業者の中にはジハーディストの集団も混じっていた。
国家の統治が機能せず、個人や部族や民族の忠誠心が幅を利かせる社会では、密輸組織は誰にも邪魔されずに商売を拡げ、腐敗した政治家や官僚の人脈を着々と築いていく。こうした人的ネットワークの構築は、密輸品の通過を確実にするための基本中の基本だった。こうした状況で、密輸業者がもう1つの禁制品である人間という商品に手を出すのは、時間の問題だった。この商品には2種類ある。1つは身代金目当てで誘拐される外国人、もう1つはちゃんと料金を払える難民である。こちらは西アフリカの混乱を逃れてヨーロッパへと運ばれた。
利益率の高い誘拐ビジネス
2003年にヨーロッパ人旅行者32名が誘拐された。実行したのは、アルジェリアの武装イスラム集団から一部メンバーが分離して結成した「宣教と戦闘のためのサラフィスト・グループ」。彼らはヨーロッパ各国政府が身代金550万ユーロを払うと、AQIMを創設した。AQIMは発足当初から、特に利益率の高い密輸と外国人誘拐で資金を賄ってきた。
実のところ、2003年までは、誘拐などというものは労多くして功少なしであると考えられていた。それでも最初の大量誘拐が思いがけず成功すると、犯罪者やジハーディストの集団は、このビジネスはやる価値があると考え直した。