鈴木敏文 孤高

発刊
2016年12月22日
ページ数
376ページ
読了目安
406分
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カリスマ経営者の半生記
セブン&アイを巨大企業に育て上げたカリスマ経営者の半生を振り返る一冊。

雇われ社長としての矜持

鈴木敏文は、イトーヨーカ堂の創業者である伊藤雅俊から経営手腕を高く評価され、早くから頭角を現してきた。伊藤が総会屋事件で引責辞任して以降、鈴木は名実ともにトップとなったが、それを支えたのは伊藤からの絶大な信任だった。鈴木にとっては、伊藤の信任は自らの実力で勝ち取ったという自負がある。創業者と「雇われ社長」という立場をわきまえ、「無私」の姿勢で仕事に打ち込み実績を重ねてきたことで、伊藤の信頼を得てきたとの思いだ。そして、「資本と経営の分離」こそが、鈴木が半生を賭けて守り抜いてきた「雇われ社長」としての矜持だ。

「伊藤さんは、僕がやることに『いいよ』と言うことはほとんどなくて、反対ばかり。伊藤さんだったら、コンビニなんかやらなかったでしょうね。絶対に」「もちろん、僕はずっと自分を無くそうと努力してきた。だから、伊藤さんも僕をずっと使ってこられたのだと思う。それに、僕のやってきたことは、幸いにして成功してきたから、伊藤さんは僕を追認し、一切を任せてきた」

その姿勢は、鈴木が1963年、まだ5店舗しかなかったイトーヨーカ堂のに転職して以来、ずっと守ってきたものだ。この鈴木の矜持が、セブン&アイを売上高で10兆円を超える巨大グループに成長させていったのである。

異なるリーダシップ

鈴木敏史が、セブン&アイ・ホールディングスの前身であるイトーヨーカ堂に入社したのは1963年。東京五輪の前年で、人口1000万都市となった東京では、猛烈な勢いで消費が拡大していた。ダイエーの中内、セゾンの堤など、流通業界の偉人たちが頭角を現し始めた時に、鈴木は東京のローカルスーパーにすぎなかったヨーカ堂に足を踏み入れた。中内も堤も、強烈な個性とトップダウンを持ち合わせ、創業家であり会社のオーナーとして、絶対的な権力を振るった。だが、創業オーナーでありながら、伊藤のリーダーシップは異なっていた。

「伊藤さんは我慢強いんですよ。慎重という表現もできるけど。コンビニエンスストアをやると言った時も、アメリカのセブンイレブンを買うと言った時も反対だった。中国進出も銀行設立も。何事にも反対したのは性格。それでも、反対されたことを何とかものにしてきたから、割合と意見を聞いてくれるようになった。この範囲までやってダメだったら諦めますと、きちっと宣言する。そうすると、じゃあ、まあ、となる」

鈴木は、自己実現の欲求を満たすために、伊藤はオーナーとして自らの資産を守るため、互いを利用し合ったと言える。この2人のトップが牽制しあうエネルギーとバランスが、1人の絶対権力者が君臨したダイエーやセゾンにはなかった、バブル崩壊などの変化を生き抜く強さをもたらした。

セブンイレブンの成功

セブンイレブンの成功は、鈴木の先見性だけによってもたらされたものではない。当初、米セブンイレブンの基本だった直営店方式による出店計画を現場が進めていたところに、豊洲の酒屋がオーナーとして名乗り上げたことで、急遽FC方式に転換したのは、鈴木の英断だった。この政策転換がなければ、加速度的な出店は不可能だった。米国になかったおにぎりや弁当などの「中食」の品揃えに注力することを決めたのも鈴木だし、共同配送を推進したのも鈴木だった。それでも、これらの鈴木の斬新な発想を日々の事業運営の面で支えたのは、米国のノウハウによるところが大きかった。そうした米国のノウハウに、おにぎりや弁当などの廃棄が出たらロスは加盟店が負担するような、日本独自の仕組みも加えていった。

そして、ヨーカ堂が東京発祥のスーパーであり、セブンイレブンも必然的に東京から事業を広げていったことが、その後の成長のカギとなった。東京という巨大な消費地の中にいなければ、限られた地域に出店を集中する、いわゆる「ドミナント戦略」は機能しなかっただろう。物流効率などを考え、鈴木は当初「江東区から一歩も出るな」と店舗開拓の担当者に指示を出したという。その成功体験が、中長期に渡って収益性の高い出店を続ける基礎になった。