日本の工芸を元気にする!

発刊
2017年2月24日
ページ数
254ページ
読了目安
310分
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創業300年の老舗企業の挑戦
創業300年、奈良の小さな老舗企業が時代とともに変化し、事業を継続してきた物語。13代社長になり、卸売業から小売業、SPAへと業態転換し、現在では各地の工芸メーカーの支援を通じて、日本の工芸を復興させる活動が紹介されています。

創業300年、中川政七商店

1716年に奈良で創業した中川政七商店は、2016年に創業300年を迎えた。事業の内容は、手績み手織りの麻織物を作り続けてきたとなるが、歴史を振り返れば、それぞれの時代の当主が環境に適応し、新しいことに挑戦しながら事業を続けてきたことがわかる。

麻を白くする晒の技術が高いことから珍重された奈良晒は、徳川幕府から御用品指定を受けるなどして、17世紀後半から18世紀前半にかけて全盛期を迎える。初代の中屋喜兵衛が中川政七商店を創業したのは、ちょうどその頃だ。しかしその後、近江や越後といった他産地の技術力が上がってくると、原材料である苧麻を東北や北関東などの遠方から陸路で調達していた奈良は、価格競争に負けて次第に押されるようになる。そして、明治に入ると武士の裃という主用途の1つを失った奈良晒の衰退は決定的なものとなる。そんな中でも9代当主である政七は品質を守り続け、風呂上がりの汗取りや産着という新しい需要を作り出し、宮内庁御用達の栄誉も受けている。

10代政七は工場生産と歩合給という、当時としては画期的な制度を導入している。麻織りは農閑期の女性の仕事だったが、晒場と織場を建てて、そこで織子を雇って作業にあたらせた。11代巌吉は、高度成長期の日本での製造が難しくなる中、生産拠点を韓国、中国へと移しながらも、昔ながらの手績み、手織りの製法を守った。父である12代巌雄は、茶巾を足がかりに、茶道具全般を扱う卸売業に事業を拡大する。麻の良さを日常で感じてもらおうと、麻生地の雑貨と和小物を扱う遊中川を立ち上げた。

 

何ものにもとらわれずに生き続けていくこと

中川政七商店の13代社長に就任したのは2008年2月。まだ寒いある日、天理の寿司屋に父と2人で出かけた。2人きりで外食したのは、後にも先にもこの一度だけだった。注がれたビールを普段は飲まない自分が形ばかり口をつけるのを待って、「現役を退いて、おまえを13代社長に就かせるにあたって、言っておきたいことが2つある」と父は切り出した。1つは、自分の代で中川家の財産を1/3にまで減らしてしまったという告白。もう1つは極めて意外な言葉だった。「会社を潰そうがどうしようがおまえの勝手や。好きにやればいい。もし潰れたら笑ってやるだけや。ただ1つだけ伝えて起きたいことがある。何ものにもとらわれるな。おまえは麻というものを大切に思っているが、それもどうでもいい。商売を続けることを第一に考えろ」

父も歴代当主たちも、その時代時代を生き抜くために変化と進化を重ねてきた。もしも、奈良で作った麻生地だけにこだわっていたら、中川政七商店はとうの昔になくなっていただろう。格式張ったことを好まず、家訓や社是などない家だが、何ものにもとらわれずに生き続けていくこと。それが中川政七商店が300年にわたってもっとも価値を置いてきたことなのかもしれない。

 

日本の工芸を元気にする

時代の荒波に揉まれながら、会社を成長させようともがいてきた歴代当主たち。そのバトンは、13代目に渡された。考え抜いた末に一つの答えを見つけた。「日本の工芸を元気にして、工芸大国日本をつくる」だった。

工芸を取り巻く環境は厳しさを増すばかりである。後継者がいない、子供に継がせたくないというところも多い。技術力や実績があっても先が見えないから、続けられないという。普通の人の生活から工芸品が消えて市場が縮小した結果、多くの作り手や産地が同じような状況に置かれている。

工芸メーカーが窮地に陥れば、中川政七商店の存在基盤も揺らぎかねない。そこで中川政七商店はコンサルティングや、直営店や展示会を通じて商品の流通をサポートすることで、全国の工芸産地で元気な工芸メーカーを作り、産地の一番星として輝かせる取り組みを行っている。