伝えることから始めよう

発刊
2017年1月13日
ページ数
271ページ
読了目安
304分
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なぜ、ジャパネットたかたで商品は売れるのか。
ジャパネットたかたの創業から、会社が急成長するまでの物語。なぜ、ジャパネットたかたで商品は売れて、急成長することができたのか。

今を生きる

一番の生き方は「今を生きる。」ということ。人間は今を頑張れば明日は変わるんだということを常に思って、いろんなことに挑戦してきた。今の「ジャパネットたかた」があるのは「今を生きる。」ということを一生懸命やってきた結果である。これまで目標というものを持ったことがなく、ただその時、今やるべきことを見つけて、それを一生懸命に、自分の能力の200%、300%を注ぎ込んで、取り組んできただけだった。

今のジャパネットたかたに直接つながっていくことになる、カメラ店の仕事を始めたのは1974年の25歳の時だった。大学卒業後、会社勤めをしていたが、折角入った大きな会社を辞めてしまって、お金もなくなり、故郷の平戸に帰って来ていただけだった。父母は「カメラのたかた」という写真館を経営していた。カメラの販売に、観光地やホテルで観光に来たお客さんの写真を撮って、現像してプリントを販売する仕事を始めていた。

松浦市という町で「カメラのたかた」の支店を任されることになった。松浦支店を始めた時の月商は55万円。これを1年で月300万円の店にしようとした。その頃は、コンパクトカメラが普及し始めていて、フィルムや現像の需要は増加の一途だった。

できない理由ではなくて、できる理由を探す

当時、カメラ店の仕事で利益が上がるのは、フィルムを売るのと、現像してプリントすることだった。とにかく現像するフィルムを集めなければと、写真をたくさん撮る建設現場を回って、集配ルートを確立すると、撮影済みのフィルムが集まるようになった。フィルムの集配だけでは月300万円には全然足りないので、カメラの販売にも力を入れた。旅館でカメラを並べさせてもらい、昼間にチラシを配ると、1日で30万円ぐらい売れた。出張販売もした。団体旅行の写真添乗の仕事もした。小さな町で、つても何もないのに、55万円の月商を1年で300万円なんて無理だと思われるかもしれない。できない理由を探せばいくらでもある。でも、できない理由ではなくて、できる理由を探そうと考えた。一生懸命にやっていると、できることが見えてきて、1年後には月商300万円の店にすることができた。

松浦支店は従業員に任せて、平戸の店に戻り、その後、佐世保に支店を開業。その時に始めたのが取次店だった。米屋やタバコ屋に取次店の看板を出して現像するフィルムを預かってもらう。いろんな小売店を歩いて回って、100軒、200軒と増やし、エリアを拡大していった。コンパクトカメラの普及は、カメラ店にとってチャンスだったが、すぐに価格競争が始まった。最初はプリント1枚35円が、最後は同時プリントなら0円に。大手は現像代で利益をとって、プリントは無料にするサービスを始めた。そんな値段で小さな店は太刀打ちできない。そこで、23分仕上げという現像機を購入し、当日仕上げのプリントサービスを始めた。値段で対抗できなくても、スピードなら大手に勝てると思った。さらに品質にもこだわることで、フィルムはどんどん集まるようになった。

一生懸命にやれば課題が見えてくる

1986年、37歳の時に独立した。翌年、初めて宣伝にラジオを使った。フィルム1本5円というのをラジオで流すと効果があった。これが後になってラジオショッピングにつながっていった。独立して3年目には、ソニーのハンディカムの販売に力を入れた。ポスティングの特売セールや訪問販売で、月に100台は売り、特約店で九州1位となった。売れたのは新規のお客さんを開拓したから。ガス屋さんの集金ルートを一緒に回らせてもらったりした。そして、どんどん扱う商品が増えていった。

ラジオショッピングを始める直前の1989年の年商は2億7000万円だった。1990年にラジオショッピングを初めた。ラジオで5分間喋っただけで、カメラが50台売れた。売上は100万円。そこで、もっと回数を増やせるように放送局に営業に行った。ラジオショッピングを機に会社は急成長し、全国ネットワークが完成した1994年の年商は43億1000万円にまで増加した。