ただただ今生きている自分の命を輝かせる
生きているからこそ、新しい一日をスタートできる。様々な出会いがある。105歳という年齢を迎えてもなお、自分でも知らない自分がたくさんあり、その未知なる自分と出会えるということに、心からわくわくする。
一方で「死」という事実だけを抜き出し、自分の心をのぞくと、目をそらしたくなるような恐怖が先にたつ。死ぬということは人間にとって経験していない「未知」の部分なので恐ろしい。自分が経験したことのないことについては確信が持てないからこそ、恐れの気持ちがわいてくる。死を怖いと思うことはごく自然な感情である。
ただ「死ぬのが嫌だから生まれてこない」という人はいないように、人間は生まれた瞬間から死ぬことが決まっている。死と生は切り離すことのできない一続きのものである。死だけを凝視するのではなく、目を背けるのでもなく、ただただ今生きている自分の命を輝かせていくこと。それこそが死と1つになった生を生きるということである。
死ぬことで新しいものが始まる
死ぬということは、多くの人にとって、まるでトカゲの尻尾が切れるように終わるものだと考えられているが、たくさんの死をみとってきて感じるのは、終わりではなく、新しい何かが始まるという感覚である。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」。これは聖書の「ヨハネによる福音書」の一節である。一粒の麦は死ななければいけない、死ぬことによって、無数の麦の誕生につながるという希望を示している。
死そのものは怖いが、そこで人生の全てが終わるという感覚よりも、新しいものが始まる予感の中にいる。
人生の午後が長いということは幸せなことである
長く生きるというのは素晴らしい。100歳を超えたあたりから、自分がいかに本当の自分を知らないでいたかということを感じるからである。世の中で一番わかっていないのは自分自身のことだということに気づく。
物事の真理というのは、すぐにわかるものではない。時間をおき、繰り返し考えることで、後になってだんだん本当の意味が姿を現すのである。長生きするということは、わからない自分と出会う時間がもらえるということである。
生きている時間を人のために使う
命とは目には見えないけれど確かに存在する、エネルギー体のようなものである。そのエネルギーはどこに存在するのか。
「命というのは君達が使える時間の中にある」と子供達に伝えてきた。子供のうちは与えられている時間を全部自分のために使いなさい。だけれども、大きくなったら、その時間を他の人のため、社会のために使わないといけない。生きてきた時間の内、人のために使った方が多い人が天国に行ける。
あるがままに生きる
名誉、お金、地位、他人からの賞賛、そういうものに囚われていると、ありのままの自分というのはすぐに見えなくなってしまう。ありのままに生きるということは、飾ることなく、人からの評価に左右されることなく、自分に与えられた能力、環境を、自分がやるべきことのために使うという、シンプルな働きである。
そして、ありのままでいるためには、無理をしない「あるがまま」でいるということが大切である。頑張って精一杯生きている自分を受け入れ、その中で一生懸命やり続ける。そしてうまく行かない環境をも受け入れるのである。自分の努力で変えられることと、どんなに頑張っても変えられないことがある。その変えられない現実の中で、真心を込めて生きた時、きっと神様が働いてくださる。そう信じて委ねるのである。