経済成長という呪い 欲望と進歩の人類史

発刊
2017年8月25日
ページ数
222ページ
読了目安
266分
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現代社会は、経済成長なしでも持続できるのか
経済成長は、生活の苦悩から人間を救い出す役割を担う宗教のような存在となった。しかし、経済成長は持続的ではない。経済成長という考え方を問い直し、これからの現代社会が向かうべき方向を考えさせる一冊。

経済成長という宗教の崩壊

現代の宗教とも言える経済成長は、人々の衝突を和らげ、無限の進歩を約束する妙薬だ。人々は自分にはないものを欲しがる。そのような人々の暮らしにおけるありふれた惨事を解決してくれるのが経済成長だ。ところが少なくとも西洋諸国では経済成長は断続的で儚いものにすぎない。

経済は限りなく成長するという約束が当てにならないものになるのなら、社会は一体どうなるのか、人々は経済成長以外に自分たちを満足させられるものを見つけられるのか、それとも人々の間に失望と暴力が蔓延するようになるのか。

経済成長が途絶える時、進歩という理想は失われるだろう。我々の祖先は、神という望徳が失われるのなら、人生に生きる価値はあるのだろうかと自問した。そして今日の問いは、物質的に豊かになる保証がないのなら、我々の人生は陰鬱で無味乾燥なものになるのではないか、ということである。

人間の欲望は際限がない

イギリスの経済学者ケインズは、1930年代初頭に「1世紀前に食糧問題が解決されたように経済問題もまもなく解決される」と請けあった。ケインズは、産業が発達するペースから考えて、2030年には人々は1日3時間働くだけで暮らせるようになり、残りの時間は、芸術、文化、形而上学的な考察など、本当に重要なことに時間を費やすことになると断言した。

しかし、現代社会は、ケインズがその見通しを立てた時より10倍も豊かになったのに、我々は物質的な繁栄をこれまで以上に追求している。ケインズは人間の欲望の驚くべき順応性を過小評価したのである。

経済成長に依存しない精神構造への転換を図れ

現代社会は、経済成長なしでも持続できるのか。現代社会の職場が個人に課す重圧や個人の妬みを考慮すれば、答えはノーだ。経済は再び成長するだろうか。歴史を振り返り、環境問題という将来的な制約を考慮すれば、これも期待できない。要するに西洋社会は、怒りと暴力にまみれるという結論は避けがたい。

現代社会は富に飢え続けている。決してたどり着けない地平線に向かって歩き続ける人のように、現代人は絶えずもっと裕福になりたいのだ。だが、一旦その裕福さを手に入れると、それが当たり前の状態になり、現代人はまたしてもそこから遠ざかろうとする。そうなるのを人間はわかっていない。人間の欲望は、その人が身を置く状況から多大な影響を受ける。こうして人間は、飽くなき無限の欲望を抱くことになる。

この影響されやすさは、呪いであると同時にチャンスだ。なぜなら、人間が、仕事、芸術、社会生活の場で役割を担うことによって欲望を昇華できれば、その対象は重要ではないからだ。しかし、そうした人間の欲望を地球の保全と整合性を持たせるには、新たな転換が早急に必要だ。それは人口転換が成し遂げた量から質への転換と似たものだ。

現代社会が失業の解消や明るい未来を夢見るために利用する唯一の方法が、物質的な経済成長であり続ける限り、現代社会がそれを断念するとは考え難い。しかし、現代の経済成長の原動力は、労働強化と気候変動のリスクであるため、失業と雇用不安、精神的なストレス、環境危機というトライアングルの地獄が待ち構えている。物質的な経済成長では、未来に展望を持てず、また地球の瓦解を避けるために必要な方策に理解を示せない、気の滅入った人々で成り立つ社会になってしまう。

環境破壊の脅威だけでは、人々は腰を上げないだろう。環境破壊を避けるために不可欠な技術的な方策を講じる際の背景に、人々の精神構造に変化がなければ、こうした技術が日の目をみることはない。企業内、人々の間、国家間において、社会的なつながりを穏やかなものにするには、我々は競争と妬みの文化を超越しなければならない。