ひとまず、信じない – 情報氾濫時代の生き方

発刊
2017年11月8日
ページ数
200ページ
読了目安
196分
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押井守の幸福論
映画監督の押井守氏による幸福論。
「人はどのようにすれば幸福になれるのか」など、幸福、仕事、偽物、人間、政治、映画をテーマとして論考する一冊。

孤独のうちに幸福にはなれない

一般化して「これが幸福」などと定義することはできないし、幸福が定義できないとすれば「どうしたら幸福になれるのか」などということは、問い自体に意味がない。幸福な状態というものを一般化することができない以上、幸福はごく私的な基準で決まってしまう。幸福とは人によって違うし、あるいは本人が幸福と思えていることが幸福ではないというような矛盾さえはらむのが、幸福の実態である。

日本人は、常に神を信じ、祝福されるといった信仰心が薄いので、常に寄り添ってくれる存在はいない。結局は自分一人で生きていくことになるし、自分の手で幸福を掴み取るしかない。だから、必ず現実のパートナーは必要である。人間は孤独のうちには絶対に幸福になれない。必ず幸福を確認する相手が必要になる。最も、そのパートナーは人間の異性であるとは限らない。人間でなくとも良い。

価値観を共有できるパートナーの存在が必要

幸福になるためには、異性のパートナーを想定することが多い。では、なぜ神や犬ではなく、異性の彼・彼女の存在が幸福を決定づけると考えられているのか。それは、男女の愛こそが、幸福を左右する必須のものと思われているからに他ならない。ただ、男女の愛などというものは、実は戦後的な価値観の産物なのであって、普遍の価値ではない。

愛という言葉は、江戸以前の儒教的な価値観の中では、むしろいかがわしい言葉だった。儒教の八徳には、愛という言葉は入っていない。愛はむしろ公序良俗に反する恋情の類として使われるものであって、それは人を不幸にするという文脈で使われてきた。男と女の愛がすべて、という価値観は戦後思想の産物に過ぎない。

だから、本質的な意味での「幸福」を考える時、そういう意味での「愛」が、パートナーとの間に必ずしも存在する必要はない。そのため、人間以外の存在とも信頼関係に基づくパートナーの関係を結ぶことが可能である。

では、パートナーとの間に真に必要なものとは何か。それは価値観が共有できるかどうかということだ。もしくは、同じ世界観を持つ、同じ時間を過ごすということだ。

ある人間の幸福は、別の人間の幸福とは限らない

幸福の要素として、パートナーの存在は欠かせない。ただ、それは幸福を作り出す、あるいは確認する要素であって、幸福そのものではない。

「幸福」の条件は人によって違う。ある者にとって幸福は、心安く毎日を過ごせることかもしれない。家族がいて、家と仕事があって、傍に犬もいて、それが幸福という者もいるだろう。だが、そうではない者もいる。戦争は究極の不幸と言われるが、戦場でしか幸福を感じられない者もいる。

ある人間の幸福は、別の人間の幸福とは限らない。幸福には絶対の尺度がない。絶対の尺度がない以上、幸福を比較することも、共有することも、強要することもできない。幸福とはつまり、それぞれの価値観に強く結びつくのである。

人生において必要なことは優先順位をつけること

最も重要なことを見極める。このことが人生に置いて最も大事なことである。そのためには、人生を色々な要素に分けて、今の自分にとって何が一番大事なのかの順位づけを常に心がけなければならない。これができていない人が多すぎる。

優先順位を考える前にやるべきことは、幸福なら幸福で、幸福になるための条件をいくつかの要素に分類することだ。そして、いくつかに分けた要素に、順位をつけることが問題だ。そこには優先順位をつけるための根拠が必要となる。その根拠に、その人ならではの価値観が現れるのである。

幸福になるために自分は何を選ぶのか。それができなければ、絶対に幸福にはなれない。