「何を感じたか」から始める
言葉に詰まってしまう人ほど、深く物事を考え、誠実に世界と向き合っている。言葉が出てこないのは、能力が低いからではなく、その場における最適解を瞬時に探り当てようとする高度な知性と優しさの表れである。見えているものが多過ぎて、優先順位がついていないだけである。
言いたいことが多い時、必要なのはもっと考えることではない。コツは「一番言いたいこと」から始めること。前後の文脈や話のあらすじは一切無視して、心を捉えた一瞬のことだけ言う。
今、言語化がもてはやされている。ロジカル、端的、構造的といったものは大事である。しかし、その前に「本当は何を感じたか」が抜け落ちている。多くの人は「どう言えばいいか」から考えるが、本当は「何を感じたか」から始めなければならない。正しさで選ぼうとすると、迷い始める。
一度言葉が外に出れば、脳の作業台に余白が生まれる。すると「次はこの話をしよう」「そう言えばあのことも伝えたい」と、次々に自然と形になって浮かんでくる。
最初から完璧を目指さない
今の社会は「完璧にしてから出せ」と言うが、完璧など幻想である。完璧にしてから出そうとすると、永遠に言葉を探す作業は終わらない。多くの人は、言葉に最初から高い完成度を求め過ぎている。しかし、その場で完璧にまとめられる言葉など、それはもはやスピーチ原稿である。人は本来、途中で言い直し、考えながら話す生き物である。
最初から正解を狙うのではなく、まずは起点となる言葉を出してみる。今の気持ちに近い言葉を選んでみる。その後のやり取りで、豊富な語彙を使っていくらでも洗練させていけばいい。
自分の言葉に厳しい人ほど、言葉を発する瞬間に次の3つの要素を一度に整えようとし過ぎる傾向がある。
- 視座:どこから見るか
- 解像度:どこまで細かく見るか
- 全体と詳細:森の話か木の話か
言葉に詰まる人は、賢く見えるように、これらを一発で揃えようとする。しかし、そんなことは簡単にはできない。「全体」は入口ではなく、話した結果として見えてくるものである。
人間は細部から全体へ向かって理解していく生き物であり、言葉もまた、最初の一歩という細部を置くことでしか、目的地に辿り着くことはできない。
不完全な言葉が相手を近づける
不完全な言葉であっても、それを聞いた側は「何を言おうとしているのだろう」「どう返せばいいか」と、すぐに考え始める。言葉は口から外に出た瞬間に、自分1人だけのものではなくなり、その場にいる人と一緒に考え、育てていくための材料に変わる。
整い過ぎた言葉には、受け取る側が入り込む余地がない。言葉を完璧に磨こうとすればするほど、相手は遠ざかる。自分1人で思考を完結させてしまうことは、相手が言葉を挟むための隙間を自ら塗りつぶす行為に他ならない。
言葉を完璧にしないことで、初めて相手に「補足する」「一緒に考える」という役割が生まれる。目の前にいる人を単なる聞き手から対話相手へと変えるのは、未完成な言葉なのである。
正しく整えられた言葉には、発した人の姿が映っていない。情報としては伝わっても、誰がどんな背景で、何を感じてその言葉を発したのかが消えてしまう。受け取る側は内容を理解できても、その人に触れた感じがしない。
何かを伝えようとする時、私たちはつい「どう言えば正しいか」を優先してしまう。しかしそれは、言葉の中から「自分」を退場させる行為でもある。