敗れてもまた走れ アシックス創業者 鬼塚喜八郎の情熱

発刊
2026年7月31日
ページ数
448ページ
読了目安
541分
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「オニツカタイガー」が世界的なブランドになるまでの物語
スポーツ用品メーカー「アシックス」の前身である鬼塚商会を立ち上げた鬼塚喜八郎の創業物語。
戦後の焼け野原の神戸でゼロから創業した鬼塚商会が、靴作りのノウハウもない中で、「オニツカタイガー」を作り出し、やがて世界的に評価されるまでになったプロセスが描かれています。

起業時点から、海外大手のアシックスやプーマに勝つことを目標に、事業を成長させてきた経営者の考えやものづくり、マーケティングの考え方まで、現代にも通ずる知見が詰まっています。

金儲けだけを目的にするような経営はダメだ

「オニツカタイガー」を擁するスポーツ用品メーカーのアシックスの源流は1949年、敗戦直後の神戸で鬼塚喜八郎が創業した鬼塚商会に遡る。陸軍将校だったにも関わらず、戦地に赴かずに内地で終戦を迎えた鬼塚喜八郎は、縁あって神戸に赴くが、焼け野原の闇市のカオスの中で、善悪のへったくれもない現実を目の当たりにした。

 

喜八郎は、28歳になるまで、軍隊という特殊な世界しか知らず、一面焼け野原の神戸において簡単に勤め口が見つかるはずもなかった。そこで養母の伝手を辿り、西井商事という会社を紹介してもらった。西井は混迷の最中で神戸の政財界を取り込み、進駐軍の幹部に特別なコネを作り上げ、進駐軍用に割り当てられたビールを闇市に流していた。気がつけば、喜八郎は常務として西井のビジネスを動かす推進役になっていたが、違和感が少しずつ大きくなっていった。

1948年、兵庫県の青少年スポーツの拠点となるような体育館を建設したいという新規事業を西井が提案してきた。喜八郎はその後の人生の全てを捧げることになるスポーツと出会った。しかし、体育館は最初から転用・転売目的だった。喜八郎は西井商事を辞めた。

 

オニツカタイガーの誕生

体育館建設の件で迷惑をかけた県の保健体育課長は、喜八郎の最大の理解者となった。「鬼塚、運動靴をつくらんか。日本中、何もかも不足しているが、スポーツをやろうにも運動靴がなければ始まらない」と言った。

1949年、神戸にはまだ焼け野原に瓦もないバラック住宅ばかりが並んでいたが、人々が生活感を取り戻していた。喜八郎は「鬼塚商会」を立ち上げた。神戸は靴作りの集積地である。スポーツシューズに欠かせない素材から職人、ゴム作りまで、靴作りの全てが街に揃っていた。

喜八郎は兵庫県下の小中学校、警察などにズック靴や警邏用靴を納める配給問屋の仕事をしながら、靴作りの技術を習得するために見習いとして働いた。そこから1年間、工場が稼働している時はほぼ休みなく通い続け、工程ごとに熟練工に張り付いて、靴作りの基本を覚えていった。

 

見習いで品質の良いシューズを作る工場をゼロから立ち上げることの難しさを痛感してから、自分が企画するスポーツシューズ第一号は生産委託するしかないと決めた。問題は、最初にどんな靴を作るかだった。機能が違えばシューズの構造も違うし、作り方も変わる。何を作れば、世の中に認知してもらえる存在になれるのかを考え抜いた末「一番難しいスポーツシューズから作ろう」と決めた。そして、リサーチを経て選んだのがバスケットシューズだった。

当時から戦後に至るまで、バスケットシューズは日本製だったが、アメリカのコンバース社製の見た目と雰囲気を真似ただけの紛い物だった。本格的ばバスケットシューズは、当時の日本には存在しなかった。西井商事に勤めていた際に知遇を得た神戸高校の教師に相談し、体育館に足を運び、選手のフットワークを研究し始めた。選手それぞれの微妙に違う反応を克明に記録し、それを根気よく改良して、試作を重ねていった。ついに1951年「吸着盤型バスケットボールシューズ」が誕生し、「タイガー」というブランド名をつけた。

 

喜八郎は、タイガーを携えて、大阪船場の問屋街を歩き回って売り込みを始めた。しかし、いつの時代も新規参入者は歓迎されず取り扱ってもらえない。そこでまず、商品の存在を消費者に知ってもらうため、国体やインターハイ、インターカレッジなどの全国大会に出かけていっては、有名選手やコーチに売り込んだ。無料で、しかも自分に合うようにカスタマイズするという喜八郎の提案は大きな評判を呼んだ。このプロセスでシューズの課題を見つけ、それを解決する技術も蓄積する。有名な選手がオニツカのシューズを履いて活躍してくれれば、大きな宣伝効果も期待できる。この手法を「頂上作戦」と名付けた。

 

喜八郎は宣伝だけでなく、直販ルートの開拓も始めた。中身は行商である。自らの足で全国のスポーツ店と築いた信頼関係は、オニツカの強さの源泉となっていく。最終的にはオニツカも正規の問屋ルートにシフトしていくが、オニツカの草創期を支えたのは間違いなく、この直接取引だった。

 

爆走するベンチャー企業

1959年には、オニツカの売上高は3億8000万円に迫り、従業員数も130人ほどに拡大したが、世界市場では依然、アディダス、プーマが巨人として君臨していた。日本市場でも老舗のスポーツ用品メーカーのミズノやケミカルシューズの月星ゴムなど戦前から続く大手が存在し、オニツカは伸び盛りのベンチャー企業という立ち位置だった。

 

東京オリンピック前には、オニツカの品質の高さは、国内、海外にも知れ渡っていた。それと呼応するように、スポーツやレジャー以外の分野からも、シューズを作って欲しいという依頼が次々に舞い込んだ。