マクルーハンはメッセージ メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?

発刊
2018年5月17日
ページ数
200ページ
読了目安
324分
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メディアの本質とは
「メディアはメッセージである」「グローバル・ビレッジ」等のフレーズで、1960年代に時代の兆児となったマーシャル・マクルーハンを読み解く一冊。現在のインターネットにも通じるメディア論を展開していたマクルーハンのいうメディアの本質が紹介されています。

メディアはメッセージである

マクルーハンは風刺の効いた警句をいくつも作っており、それらをさっと眺めるだけでもメディアについて考えさせられるが、これらのうち「メディアはメッセージである」という言葉は、マクルーハンのメディア認識の核になる命題とも考えられており、有名である。これはメディアが伝える内容(メッセージ)ではなくメディアの持つ本来の性質(メッセージ)を理解すべきだと主張するもので「メディアこそメッセージである」と言い換えた方がわかりやすいかもしれない。マクルーハンはこの言葉で、メディアを形作る前提を無視してメディアを中立的で無色透明なものと考え、内容ばかりに目がいく表層的な論議を戒めた。

またマクルーハンが言うメディアとは、人間の身体や感覚の拡張を助けるもの全般を指すかなり広い概念だ。彼はメディア自身の特性、つまりメッセージを読み解くことで、我々の社会や文明に対する洞察が得られ、それがひいては自らの拡張であるメディアの中に溺れた人間を解放してくれるのではないかという希望を抱いていた。

グーテンベルクの呪い

元々文字の発明される前の世界は、書き言葉ではなく話し言葉が支配していたと考えられる。マクルーハンは文字以前の時代を、聴覚と触覚が支配する時代と考えた。その後、文字が発明されることで、視覚が優先される時代がやってくる。アルファベットはローマ帝国の拡大と共に普及していくが、パピルスや羊皮紙などに書き写され、書かれた文字は声を出して読み上げられ、聴覚的な世界が完全に視覚に取って代わられたわけではなかった。視覚が決定的に優先的地位についたのは、グーテンベルグの活版印刷が文字の生産を機械的に行い、それまでにないスケールで拡大したからだった。

活版印刷が変えた最も大きなものは世界観の変革だった。聴覚が優先していた時代には、事物は原因と結果が同時に生じうるように感じられたが、視覚が優先する本の世界では、それがページに連続した因果性の形に整理され、説明されて分析されるようになった。ある視点の下に本のように整然と物事が配置される世界観は、国家や組織を階層的に記述し組み立てるのに効果を発揮する。さらにそれは法律から宇宙の姿までを同じように記述しようとして拡張され、全てがほんに書いてあるがごとき因果性に沿って展開すると考えるような見方を助長する。近代国家は視覚的な表現の上に形成され、それゆえの限界も持つ。視覚的に記述できるものと現実を分離して考える習慣は、より広範な対象を理解したり支配したりする手掛かりを与えるが、逆に対象そのものへの関わりを減じ、観念的な記号操作に終始する実体のない論議にもつながる。

マクルーハンは、活字文化の弊害はずっと19世紀まで続き、それが電子メディアの時代に、活字文化や文字文化の前にあった聴覚や触覚を中心とした部族的社会を復活させるという論を展開した。彼は活字が出現する以前のカトリックが中心だった世界を理想化し、電子メディアがさらに大きな地球規模でそれを回復すると考え、これを「グローバル・ビレッジ」と呼んで期待を寄せた。

グローバル・ビレッジ

マクルーハンは電子メディアが世界規模に拡がって人間同士をクールに関与させることで、物理的な村よりももっと大きなスケールで新しい共同体ができ、それが逆に村のような小さなスケールで感じられるというイメージを描いた。そして、このスケールが拡大するエクスプロージョンが同時にお互いの関与によるコミュニケーションを密にして相互の距離を逆に縮める様子をインプロージョンと呼んだ。マクルーハンがイメージするグローバル・ビレッジは「世界規模の小さなコミュニティー」という矛盾する性格を持ち、かつ中世以前の原始社会の持つ部族的社会に近いものだった。このイメージに最も近い存在がインターネットであろう。