数字やデータは万能ではない
統計をはじめとした数字が示すデータなど「エビデンス」が正しい社会認識を助けるならば、適切な問題解決につなげることもできる。公共政策の分野においては、エビデンスを活用する志向が世界的に強まっており、日本でも有効な政策立案を実現すべく、EBPM(エビデンスに基づく政策形成)の動きが加速している。
しかし、エビデンスがありさえすれば、全ての物事が簡単に片付くかというと、話はそう単純ではない。社会は複雑であり、政策も思い通りにいかないことが多い。どれだけ豊富なエビデンスがあろうとも、それは政策の絶対の成功を保証する訳ではないし、数字やデータにこだわるあまり、本末転倒な結果を招くことも珍しくない。
エビデンスによって全てを動かそうとする社会は、数字には表れない社会の繊細な部分を台無しにしてしまう可能性がある。例えば、障がい者福祉政策などの事例では、多様な実態を十把一絡げに結果や成果を数値化するようなマネジメントはうまくいかない可能性が高い。抽象的な数字やデータではうまく把握できない実態があり、それらを捨象して対応することは、問題を悪化させることにつながる。
エビデンスがあっても相手が態度を変えるとは限らない
自分の立場を補強するために「エビデンス」を用いるスタイルは、政治の世界では昔から見られたものだ。その背景には、他者を説得したいという意図がある。誰もが納得できる数字データを出しさえすれば、相手は自分に同意し、自分と同じ立場に立ってくれるだろうという期待が、エビデンスを用いて相手をやり込める態度につながる。
数字そのものは客観的で動かしようがないものに見える。しかし、そもそもの集計の仕方に悪意があったり、数字の解釈が偏っていたりする場合も少なくない。数字があるからといって、万人が同じ結論に至るのは、あり得ない想定である。そもそも政治的な価値観は、エビデンスに基づいていなくていい。
「自分と同じ情報を見れば、自分と同じような立場にみんななるはずだ」というのは、根拠のない思い上がりだ。そうした思い上がりを前提に、同じ立場に立たない相手を「お前は金をもらっているのか」などと言うのは、他者や社会に対する理解を欠いた態度である。エビデンスの濫用は、こうした態度を助長しかねず、かえって問題の解決から遠ざかる。
たとえ相手が自分の提示した情報を認識したとしても、態度を変えることはないかもしれない。それは自分と相手の間にある価値観の違いによるものかもしれない。そのような、自分にとっては受け入れ難いような他者が存在しているのが社会である。
そもそも、政治や政策に関しては、エビデンスやデータだけで、すべての判断が可能になる訳ではない。エビデンスやデータに基づいて何かしらの意思決定を下すには、解釈の枠組みが必要だからだ。大事なのは、その解釈の枠組みの背景にある価値観である。データやエビデンスは、限定的に現実をを反映したものだが、その現実が好ましいものか、そうでないのかを判断する基準となる「価値」が必要である。私たちには「どのような社会を望むのか」といった価値にまつわる議論が不足している。
エビデンスの罠への対処法
エビデンスを用いるからといって、その立場が信頼に値する訳ではない。もちろん、エビデンスを軽視して良い訳ではない。例えば、フェイクニュースはエビデンスで吟味し、それを修正する必要がある。但し、そのエビデンスそのものにバイアスがかかっていたり、解釈が偏っている場合もあるので、注意が必要である。ナラティブも同様で、エビデンスだけでは照らせない社会の側面を照らすという重要な意味があるが、それがもたらす負の影響も軽視すべきでない。
エビデンスの罠が張り巡らされているフェイクニュースの時代において、私たちがエビデンスを用いる際の注意点は以下の通りである。
①数字・データを使うことを目的にしない
まず解決したい問題を見つけ、その問題の実態把握、解決するための有効な手法の選定といったプロセスに置いて、数字やデータを活用する。
②指標が人の行動を変えることを理解する
ある指標を作ると、それが人々の行動を変えてしまう点にも留意しなければならない。
③過剰な「アウトカム」志向を避ける
原則として事業や取り組みは、アウトプットによって実現する政策の狙い(成果)である「アウトカム」を重視して評価すべきである。但し、「アウトカム」の測定は時に難しいことに留意する。
④データがない場合もあると認識する
必要なデータがないこともあり、データを過剰に重視しない姿勢も求められる。
⑤それでもなお、数字を使うのは大事である
数字は多くの失敗を生むが、数字を無視したり、軽視したりするのも危険である。数字を使わないなら、なぜそれを使わないのかを明確にし、後から生じた結果を説明する準備をする。