「ひとり」になることから始める
その人にしかない個性、積み重ねてきた人生の香りが文章から感じ取れた時、その文章に心を掴まれる。文章に化粧は必要ない。TPOは大事だし、読者、媒体、目的に応じて文章の体裁を整えることは必要だが、盛ったり、きれいに見せたり、作り込む必要はない。むしろ、それをすると響かないし、記憶に残らない文章になる。その人独自の「素」が塗り潰され、消えてしまうからだ。
承認欲求や自己顕示欲から生まれた、とってつけたような個性はノイズになるだけ。それよりも、自分が一体何を感じているのか、何を考えているのかを、そのまま伝える方が大事だ。
しかし、「素」であり「ほんとうのこと」を書くこと、つまり紛れもない個性が表出するのは怖い。アウトプットが「ほんとうのこと」であればあるほど、その反応が自分自身に対する「評価」のように感じてくる。悪い反応であれば人に見せるのが怖くなるし、良い反応であっても「こういうのが喜ばれるのか」と学習して、今後もそうしようと考えてしまう。
書くことは読まれることでもあるから、読者の目を気にするのは自然なことだ。しかし、書く前に気にすると、書けなくなってしまう。「ほんとうのこと」を書くには、まずは徹底した「ひとり」になることから始めるべきだ。
但し、他者の目線を自分の中から締め出し、「ひとり」になってもまだ「ほんとうのこと」が書けないことがある。文章を書く際、私たちの中には「書く私」と「読む私」の2人の自分がいるからだ。私たちは文章を書きながら、同時に文章を読んでいる。そうやって自己検閲しないと文章が破綻したり、わかりにくくなるからだが、「読む私」の目が厳しくなりすぎると、「書く私」が萎縮してしまう場合が多々ある。
「ほんとうのこと」を書くには、他者はもちろん「読む私」にも退出してもらわなければならない。そこに感想、批評といったリアクション、つまり「読む」がなく、ただ「書く」だけ、無我夢中で何かをアウトプットする必要がある。
書くに至るまでの「生きる」「考える」プロセスが大事
伝えたいことが明確な文章、自我がしっかりとある文章、つまり「ほんとうのこと」が書かれた文章は、多少拙かろうが読みにくかろうが、人を惹きつける強さがある。
自分の身心を通って言葉を書くこと、心を体が実際に感じたことを言葉にすることで文章は唯一無二性を帯びていく。つまり「ほんとうのことを書く」とは、体と心を動かして感じることだ。それを頭で言葉に変換していく過程だと言える。
身心が動くのは「生きる」で、その結果自分の中で何が起きるのか観察して言語化するのは「考える」。生きて、考えれば、文章が書ける。そういう意味で「書く」はフィジカルな行為だ。私たちは頭だけで書いているのではない。
- 「生きる」だけでは内省がなく自分の変化に気付けない。
- 「考える」だけでは同じところを永遠にぐるぐる回ってしまう。
- 「書く」だけでは言葉がすぐに枯渇する。
3つ揃ってようやく「ほんとうのことを書き続ける」ことができる。
「生きる」とは、自分以外の他者と関わることだ。人、動物、自然、街、政治、文化など、自分の外にあるものに触れ、触れられ、関わり合うこと。「考える」とは、自分自身と向き合うこと。他者と関わった結果、自分は何を感じたのか、自分の中の変化を観察し、自分の声を聞き、対話する。その結果としての「書く」は、他者と自分をつなげることだ。自分から生まれた「ほんとうのこと」を外に出す。そして、他者に伝える。この一連の流れは、他者と自分を行ったり来たりしながら、その両者をつなげる行為だ。
世界の一部である私の「ほんとうのこと」は、世界の一部であるその人やあの人の「ほんとうのこと」とつながる可能性がある。私の「生きる」「考える」の純度が高ければ高いほど、抽象度と共にその可能性は上がる。その純度の高さが、文章の「普遍性」だ。普遍性のある文章は、世代や性別、国や時代も超える。
文章は別に上手にならなくていい。それよりも「書く」に至るまでの「生きる」「考える」のプロセスの方が、つまり「書かない時間」の方がよほど大事だ。