「百年の孤独」の孤独

発刊
2025年11月28日
ページ数
192ページ
読了目安
163分
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『百年の孤独』の焼酎蔵の経営物語
プレミアム焼酎『百年の孤独』で知られる焼酎蔵、黒木本店の会長が4代目として跡を継いでからの経営を語っている一冊。
焼酎ブームにありながら、全く売れていなかった田舎の焼酎蔵は、どのようにしてヒット商品を生み出してきたのか、そのモノづくりの考え方などが紹介されています。

売れない小さな焼酎蔵

創業1885年の黒木本店は宮崎県の高鍋町にあって焼酎を製造する会社である。4代目として跡を継いだのは1981年、26歳の時だった。黒木本店は小さな焼酎蔵で、経営は楽ではなかった。当時、働いていた人は少なく、秋から冬には毎日朝早くから杜氏について焼酎の仕込みを習いながら働いた。

製造業は造るだけの仕事ではない。造れば売らなければならない。跡を継いだ時、黒木本店は売れている焼酎蔵ではなかった。製造以外に小売店として酒類販売をすることで経営は成り立っていた。造ったもの以外も売っていたのだ。

 

1970〜1985年は、「焼酎ブーム」という現象が起きた時代である。南九州独自の本格焼酎が大手焼酎メーカーの東京進出をきっかけに全国に認知され始めたのだ。さらには、本来の芋焼酎だけでなく、そば焼酎、麦焼酎、米焼酎などのヒット商品が生まれ、1985年の「缶酎ハイ」ブームへとつながり、瞬く間に焼酎が酒市場を席巻することになる。

家業を継いだ1981年は、焼酎ブームの真っ只中にあった。しかし、黒木本店は蚊帳の外で、小さな売れない焼酎蔵として、地元の小さな市場の中で埋没していた。有名な銘柄や、そば焼酎や麦焼酎だけに人気が集中し、田舎で売っている平凡な芋焼酎ではアピール度が弱く、消費者は勿論、酒販店、酒問屋からの引き合いも全くなかった。

 

成功と敗北は表裏一体

注目を浴び、話題となる焼酎を造らなければならない。そこで、普通の芋焼酎ではなく山芋で焼酎を造ることを思いついた。今までどこにもなく、聞いたこともない焼酎原料だ。話題性があり、必ず売れると思った。

出来上がった山芋焼酎に麦焼酎をブレンドして、都会向きのさわやかな焼酎に仕上げた。地元の新聞に記事として取り上げてもらって話題にもなったが、売れなかった。宮崎地方では、お酒を呑んで「しつこくからむ酒癖の悪い人」のことを「山芋を掘る」と昔から言う。ゆえに「山芋焼酎」と聞いただけで「呑めば酒癖の悪くなる焼酎に違いない」という連想が成り立ってしまう。

 

都会で売らなければ山芋焼酎は売れないと考え、東京、大阪、福岡の酒問屋を営業回りした。最初に飛び込んだ東京の日本酒類販売で必死に売り込み、「全て特約で売らせて欲しい」という返事をもらった。

山芋焼酎は当初は売れた。全国から注文が入り、小さな蔵にとっては大変なビッグヒットだった。蒸留器を買い替え、貯蔵タンクを買い、量産化を目指した。短期間で売り上げが伸びて、得意絶頂だった。しかし、その勢いは2年と続かなかった。焼酎業界は狭い業界である。売れて話題になると、次の年には真似され、すぐに似たような焼酎が出回り始める。さらには、人参焼酎、大根焼酎、カボチャ焼酎、わかめ焼酎、コーヒー焼酎など、様々な焼酎が酒販店の店先に並び始めた。

 

山芋焼酎は次第に売れなくなっていった。安易に話題性だけを追い求め、品質を追求する「ものづくり」の王道から大きく離れていたのかもしれない。ただ売れなくなっただけならいいが、増産を夢見て、設備投資をしてしまった。何とかして状況を変えなくてはならない。

 

「百年の孤独」の誕生

売れなくなった焼酎は、見方によれば貯蔵しているのと同じことになる。売れなければ売れないほど長期貯蔵酒になる。付加価値が増していく。どうせ貯蔵するなら樫樽で貯蔵してみてはどうか、麦焼酎の樫樽貯蔵酒はまだどこにもない。そこで、樫樽を10本購入し、山芋焼酎にブレンドする麦焼酎を樫樽に詰めた。これが樫樽熟成長期貯蔵酒「百年の孤独」の始まりである。

 

本質的な独自の個性が3つ以上あれば、その商品は明確に他と差別化できる。どこかで習った言葉だ。焼酎「百年の孤独」には、他の焼酎とは違う明確な個性が3つ以上あった。

  1. 焼酎は無色透明だが「百年の孤独」は樫樽貯蔵で柔らかな琥珀色をしている。
  2. 焼酎のアルコール度数は25度が多いが「百年の孤独」は40度という高濃度の原酒である。
  3. コルクのラベルやボトルを紙で包むパッケージデザインは他の焼酎とは全く違っていた。
  4. 「百年の孤独」という個性的なネーミングである。

 

『百年の孤独』という小説がある。ラテンアメリカ文学の代表的な作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの代表作の1つである。劇作家の寺山修司は『百年の孤独』を演劇として上演し、さらに映画作品として創ったが、マルケスと係争になり上映することができなかった。寺山修司の死後、映画は「さらば箱舟」と改題され、原作クレジットの削除を条件に公開された。

1985年に樫樽貯蔵の焼酎を製品化し「百年の孤独」と命名して発売した。寺山修司への弔いであり、オマージュでもあった。

 

もう安易に売り急ぐことはしなかった。高鍋町の酒屋さんに「1本でもいいから店先に並べて欲しい」とお願いして置いてもらった。「百年の孤独」は少しずつ知られていき、少しずつ売れ始めた。