成功者は増えない
より多くの人が、自分らしく輝きながら何かを成し遂げ、社会からも賞賛され、富や名誉を得ることは、何ら否定されるべきことではない。ただ、成功を個人の問題だと設定し、多数の「正解」を設定することで、皮肉にも無数の「失敗」と「敗者」を生んでいないか。関係性の中に生きる人間を、個人単位で見る個体能力主義的な意味での「成功」は、「成功者」を増やすのか。
卓越が卓越であるためには論理上、エクセレンスというピラミッドの頂点に君臨する人数が限定されねばならない。ポストは限られているから、社会・経済的地位でその成功度をはかるとなると、「成功者」が増えることは考えにくい。全体のパイは変わらず、時の寵児が変わっていくといった方が良い。
「成功」は限られた人にのみ手にできる豊かさの切符となり、パイは決して広がらないのに、私たちはパイの奪い合いへと妄信している。
成功哲学が廃れない理由
成功哲学が流布されようと、成功のパイ自体は増えにくい性質を抱えている。それでも詐欺だと言う人がいない理由の1つに「自己啓発」への擬態がある。他者比較の上、社会的に了承された優位性を発露してはじめて認められるのが「成功」だとすると、自己啓発は「敵は己」をモットーに、他者比較やその上での社会的序列ではなく、自分らしく輝くための研鑽を指す。
世間的には「成功」と呼ばれなくても、自分という人間は努力しているし、それだけで素晴らしいと、自分で自分を鼓舞する思考のルートができる。それが「自分磨き」「承認欲求を満たす」「セルフケア」「ウェルビーイング」「整える」といったものである。
また、成功哲学を下支えしているものに、個人の「能力」をコンプレックス化させる産業界が立役者になっている。多くの人は成功できないのに、成功できないこと、失敗を恥ずべきこと、弱さの表れだと流布されている。成功も、その構成要素である「高い能力」も何をどうすればいいのか、というのははっきりしないままである。にもかかわらず、私たちは能力や成功のコンプレックス産業化とマナー化という規範によって、不断の努力をする健気な存在に、仕立て上げられている。
これからの「成功」とは
個人の「成功」を謳えど謳えど「成功者」は増えないという現状の「成功哲学」は要らない。成功哲学をばら撒くのは、現時点の選抜的人間観を所与のものとし、自身の豊かな暮らしは公平な競争の結果であると信じ込んだ、勝者・強者である。
成功とは何か。才能が評価され、手に入れた快適な暮らし、優越感ではない。運よくたくさんのリソースに支えられ、今幸せを感じるのなら、それを多くの人に還元する取り組みこそが「成功」である。慈善活動を立ち上げなくても、身近に幸運の還元の契機は溢れている。それは日々、周りから頼ってもらい、頼らせてもらうことが「成功」である。身近な人の「不運」や「不便」を自分のできる歩幅で手伝えたらいい。
つまり、成功は強い者の話ではない。弱き者の連帯こそ「成功」だ。自分の限界をわかった上で、他者と共に感謝して在ること。結果ではなくこのプロセスが尊い。
成功哲学のようなものに触れる際に「世の中、分業なのではないか」と一瞬でも思ってみてはどうか。人にはそれぞれ強みがあり、社会的な分業のとっかかりがある。それを意識すると、等身大の他者も自分も認めやすくなる。
成功は一握りの人にだけ見つけられるダイヤモンドのようなものでは決してない。「成功」というより、豊かさ、心の平穏を皆が感じられる世の中であることが、社会全体の輝きに他ならない。