良き生を送るために人間は何をしなければならないのか
人生に何を望むか。この究極の目的「グランド・ゴール」は、人生哲学の第一の要素である。これを持たない人は間違った人生を生きる危険がある。さらに、目標を達成するためには、効果的な戦略がなければならない。従って、「グランド・ゴールを達成するための戦略」が、人生哲学の第二の要素になる。
古代ギリシャ・ローマの哲学者の多くは人生の哲学に価値を見たばかりでなく、それを考えることこそ哲学の存在意義だとした。良き生を送るために人間は何をしなければならないか、これについて様々な学派が様々なアドバイスを提供した。その中でも古代ストア派の哲学は、現代であっても充実した意味ある人生、つまり良き生を生きたいと願う人にとっては、関心を寄せる価値がある。
ストア哲学は哲学であるが、そこには重要な心理学的要素が含まれている。ストア派の人々は、怒り、不安、恐れ、悲しみ、羨望などといったネガティブな情動に苦しむ人生が決して良き生ではないと気づいていた。そのために彼らは人間の心の働きを鋭く観察し、その結果、古代世界で最も洞察に満ちた心理学者になった。こうして、彼らは、ネガティブな情動が起こるのを防ぐためのテクニックと、それでも起きてしまった情動の火を消すためのテクニックを発達させていった。
いくつもの時代を通じ、また文化の違いを越えて、すべての賢人がほぼ一致して同じことを考えていた。人は貪欲さ(常にもっと多くを求めようとする傾向)を克服しない限り意味のある良き人生は送れないということだ。さらに、この貪欲さをただすには、既に持っているものを欲することが有効だとしているのも同じだった。ストア派の哲学者たちは、人生がどんなものであろうとも、自分が自分であること、そしてたまたまこの人生を生きていることを、たとえ一時的にせよ喜ぶためのテクニックをつくりあげた。
徳高く生きよ
ストア派は、良き生を生きるためには「徳高く生きる」よう教えている。ストアの徳が意味するところは「人間としての機能をその人がいかによく果たしているか」である。つまり、徳高く生きるというのは、人間がそのために創られた生を生きるということであり、「自然に従って生きる」ということになる。
人間としての機能は、他の動物と同じように持っている本能である。但し、重要な点で私たちは他の動物と違って、論理的に考える能力を持っている。このことから、人間は理性を持つ存在として創られたと考えた。この理性を使って、私たちは同胞の利益に気を配らなければならないという社会的義務があると考えた。
もし自然と完全に一致して生きるならば、私たちは「賢人」になる。「賢人」とは、神のような存在だが、ストア派にとっての目標である。賢人になるのが不可能に近くとも、それをストア哲学を実践するためのモデルとして見ている。
起こり得る「最悪」を予期する
自分の身に起こるかもしれない悪いことを予期すれば、現実に起きた時に受ける衝撃が少なくなる。不幸が最も重くのしかかるのは「良い運命しか期待しない人々」である。どこにあっても、どんなものも、永久に続かないことを心に留めるべきである。
人間が不幸になるのは、大体において、あくなき欲望を持っているためである。一旦、欲望を満たした後は、満足を感じるよりも「飽き」を感じてしまい、そのため引き続き、さらに大きな新しい欲望を形成するようになる。この現象を「快楽適応」という。この適応プロセスのために、人は「満足の踏み車」に乗ることになる。自らの内部に満たされない欲望があるのに気づく時、人は自分が不幸だと感じる。
幸福への1つの鍵は、適応プロセスを出し抜くことである。幸福を手に入れるための一番簡単な方法は、既に手中にあるものを望むことである。このことを、時代と文化の違いを越えて、昔から欲望の働きについて深く考えてきた人々は例外なく認めていた。
ストア派の人々は、この問題を実行するために「今自分が大事にしているものを失った時のことを想像する」というテクニックを使っていた。妻を失った、車が盗まれた、仕事を失った時のことを想像すれば、私たちはそれらを大事に思うだろう。
今、自分が持っているものはすべて運命からの「借りもの」だということを忘れてはならない。そして運命は、私たちの許しも乞わず、事前通告さえないままに、それを回収できるのだ。だとすれば、私たちは、この楽しみにはいつか終わりが来るかもしれないことを、繰り返し立ち止まって考えなければならない。
ストア哲学によれば、家族の死を予想するだけでなく、友達が死んだり、あるいは疎遠になる可能性をも想像する必要がある。予想すべき死の中には、自分自身の死も含まれる。今のこの瞬間が私たちにとって最後の瞬間であるかのように生きるべきであるだと勧める。