「到底理解されない一歩」が歴史をつくる
寶船は、阿波踊りの本場・徳島県出身の父が1995年に立ち上げた阿波踊りグループである。2012年に父から運営を引き継ぎ、一般社団法人として法人化、2024年には株式会社化し、日本初のプロ阿波踊り集団として、世界26カ国へと活動の舞台を広げてきた。
しかし、寶船が結成された時も、プロになろうと決意した時も、いつも周囲の賛同は得られなかった。誰も「かっこいいもの」とは思ってくれない。阿波踊りなんて何の価値があるんだろうと、当時はずっと考えていた。前例のない挑戦でもあり、阿波踊り業界からも「あれは阿波踊りじゃない」「寶船は徳島の文化を壊している」と批判されてきた。メンバーからも理解を得られず、仲間は次々と離れていった。
寶船を通して学んだことは、社会の尺度では到底理解されない一歩から、すべてが始まるということ。到底理解されないような無謀にも思えるパラダイムシフトの先にこそ、本当の成功がある。そんな「到底理解されない一歩」を踏み出す存在を「踊る阿呆」と呼ぶ。阿波踊りの本質は、踊る阿呆であることである。
伝統からエンターテインメントへ
阪神淡路大震災をきっかけに、「阿波踊りを通して、一生懸命やる感動を教えたい」という父の想いが決意に変わった。「ニュースを見てね、これから時代が大きく変わっていく気がした。思いっきり声を出したり、汗をかいたりする瞬間が、これからどんどん減っていく気がする。人と人のつながりも、ますます希薄になっていくかもしれない。だからこそ、心の奥から生きてるぞっていうエネルギーが湧き上がる場所があったらいいなと思うんだ。だから、阿波踊りの連をつくろうと思うんだ」と、父は語った。
寶船を続けることはしんどさの連続だった。周囲の友達には「阿波踊りなんかやって、楽しいわけ?」と言われ、寶船に入ってくれた友達も様々な理由で辞めていった。そして、みんなが「かっこいい」と思える阿波踊りを、寶船はつくれないだろうかと、自分事として文化に向き合い始めた。
2009年、ライブハウス『新宿JAM』で初の寶船ワンマンライブを開催し、超満員だった。長尺のワンマンライブというスタイルに挑戦すると、作品のつくり方に可能性を感じるようになり、これ以降、エンターテインメントとしての阿波踊りを模索し続けた。これが、寶船の独自性を生むきっかけとなった。
これからの時代「体験・体感・共鳴」の価値はますます高まっていく。「鑑賞型」は終焉を迎え、「体験型」の時代が来ると確信した時、阿波踊りという歴史的な体験コンテンツこそ、時代が求めるものになるはずだと思った。寶船は、鑑賞型の「一糸乱れぬ演舞」を追求するのではなく、どんな人も巻き込む「双方向の熱狂」をつくることに一点突破してきた。
寶船の世界戦略
日本の芸能でプロを目指す時、最初に必ず決めなければならないことがある。「業界のピラミッドで上を目指すか、別のルートを開拓するか」という選択である。阿波踊りで言えば「徳島の有名連である」「大人数のチームである」「踊りの揃い方や技術が高い」などが、ステータスとして暗黙の了解になっている。しかし、自分たちは明確に「阿波踊り業界では戦わない。他の道を探そう」と決めていた。最初から世界を目指したり、プロとして成功を収めた人たちは、例外なく「ピラミッドの外へ出た人たち」である。「阿波踊り団体のプロ化」に挑戦するためには、従来のセオリーから離れ、新たなフィールドで勝負する必要があった。
まず、世界で戦うために、競合相手や同業者のリサーチから始めた。どんな団体が成功しているのか、彼らはどのように活動し、どんな戦略で観客を魅了しているのか。「阿波踊りのプロ集団」としての強みを、どこで発揮するのか。どの舞台で勝負するのか。その問いに正しく答えることができれば、可能性は無限に広がる。
阿波踊りは、生演奏が基本。元々野外のお祭りなので、街中でパフォーマンスできるという大きな強みがある。そのため、海外では現地の路上や観光名所、バーやレストランでのパフォーマンスを積極的に取り入れてきた。「いつでもどこでも踊れる」こそが、他のジャンルにはない独自の価値だと考えた。
あえて最小限の人数に絞り、小さなチームであるメリットを尖らせれば、フットワークが軽くなる。ステージの規模も問わないし、少ない費用で世界を回ることができる。生演奏の強みはそのままに、各国のヒット曲も取り入れ、観客との距離を縮める。そして、揃えることよりも個性を前面に押し出し、最後は観客も巻き込んでぐちゃぐちゃに踊り乱れる。
単独公演の作品で巡回するのではなく、数人の阿波踊りアーティストとして、大規模フェスティバルを渡り歩く。こうして自分たちらしいスタイルが固まった。