より良く休むこと
「暇」という言葉にはどこか非生産的な響きがあり、目的のない状態を連想させる。そのため、ネガティブな印象がつきまとうこともある。そして、私たちは目的に駆り立てられ、その達成のために今持てる時間を化石燃料のように燃やしながら、走り続けている。
では、暇な時間として余ったもの「余暇」にはどのような使い道があるのか。暇はそれ自体として目的を持たないため、当然その使い道は自由に決められる。暇な時間の使い方として「休息」が一番に挙げられるが、休息には2種類ある。
・パッシブ・レスト
体や心を完全に休ませるための休息法で、身体的および精神的な活動を最小限に抑えることに重きを置く。
ex. 身体的な休息や睡眠、マッサージ、入浴、深呼吸
・アクティブ・レスト
日常的なルーティンから離れ、気分転換の機会になる休息法。
ex. 散歩などの軽い運動、趣味、読書、ヨガや瞑想
この双方をバランス良く取り入れることが、人生を満ち足りたものにするためには欠かせない。「より良く休むこと」が私たちの可能性を引き出し、私たち自身を、あるいは社会そのものを良い方向へと変える。
暇の時間をどう扱うか
経済学者ケインズは、経済成長がこのまま続けば労働時間は大幅に削減され、余暇の時間が増えると語った。さらに人類の経済問題は解決され、勤勉を美徳とする考えも大きく変わっていくだろうとも語っている。その上で、ケインズは己を単なる利益追求の道具として使う者ではなく、本当に善く生きる術を知っている者たちこそが「人生を楽しめるだろう」と示唆している。
一方で、ケインズは、暇の時間をどう扱うかは非常に難しいことを認めている。働くことで自分の存在意義を見出さんとする私たちの性質は根強く、どれだけ経済的な活動が不要となった社会においても、私たちは仕事をすることで生きる意義を見出すだろうと言っている。
仮にAIのように私たちを労働から解放する存在が現れたとして、私たちは何を糧に生きていくのか。実は、自由を謳歌する方が難しい。それに現代では、憂さ晴らしのための娯楽が詰まったスマホが与えられている。余暇や自由について考える機会が減れば、思考停止をしたままの労働と受動的な娯楽を選ぶ人たちはさらに増えてしまう。
自由に生きるために、余暇の素晴らしさを享受するためには、もう一度自分でこれまでの便利な社会の下、すっ飛ばされていた手間暇をあえて取り戻さなくてはならない。自分が何が好きで、何を良しとするのか、自分の頭で問い直して弁別しなければならない。
戦略的「暇」の進め方
私たちが向かうべきは「満ち足りた余暇社会」である。余暇社会とは、単に憂さ晴らしや暇つぶし的に消費される悪質な暇ではなく、プロセスそのものに喜びを伴い、自分の未知なる可能性を追い求め、心身を充電させる回復期間にもなる「良質な暇」で満ち足りた社会を指す。
それぞれの幸せを見つけるための戦略的「暇」の実践は、次の3つのステップで進める。
①デジタルデトックス(DD)
現代の私たちに特に必要なのは「脳の休息」である。仕事から余暇の時間まで、常時デジタル機器に接することで私たちはデジタル疲れを自ら増幅させている。
DDは、一定期間、スマホやPCなどのデジタル機器と距離を置くことで、脳疲労など心身にかかるストレスを軽減し、現実世界でのコミュニケーションや自然との繋がりにフォーカスする。デジタル機器に依存するのではなく、共存するための休息がDDである。
②時計時間デトックス
時計時間は、私たちを集団で何かを成し遂げることを可能にした一方で、私たちを効率良く動かすためのツールとしても機能する。時計時間をベースとする資本主義社会では、効率は絶対神のように扱われる。しかし、人生を充実させる上で、時として時計時間の世界から離れることも重要である。効率という尺度で測ろうとする時計の呪縛から逃れることで、生きることはもっと豊かになるだろう。
時計時間を脱出する上で需要な概念は、次の2つである。
- フロー:活動に深く没入し、自分の力を最大限に発揮している時に感じられる
- 不便:便利なものに慣れてしまうと、私たちが人生で味わうべきプロセスまでも失われる。便利が絶対善ではない
③自分デトックス
自分デトックスとは、「固化した自分(自我)の思考から抜け出すこと」である。自己とは自分がまだ認知していない未開拓の自分も含んだ自分のことで、自我とは自分が定義した自分のこと。本来、自分というのはこの自己の部分も含めた大きな存在であり、実は「たくさんの自分」が手付かずのまま残っている。
私たちは現代において画一的な基準のもと「自分らしきもの」をいつの間にか装備させられている。そして、その自分を他の人と競い合わせて、自分探しをさせられている。この凝り固まった自我から離れ、自分の可能性に気づく体験は好奇心によって進む。