迷っている自分を認識する
スペインの哲学者オルテガ・イ・ガゼットは「現代人はごちゃごちゃと集まって、自分の中ですべての考えを完結させ、人の話も聞かずに、がちゃがちゃ喋りまくっている」ことに違和感を持った。その代替案として「沈黙」「警戒」「聞く」といったモチーフを肯定的に評価している。
これらのモチーフを、多様な人々が集まっているはずの都市において、みんなが注目している流行や話題を追いかけて、大して観察や注意も払わずに自分の手持ちの考えや力で物事を平気で判断し、決めつけ、宣言して構わないという生き方と対比した。オルテガは自己完結的な現代人の生き方を「エゴイズム」「迷宮」「自己中心的に歩く」などと表現している。
現代人は「自分が迷っている」などと思っていない。しかし、自分が迷っていると自覚しない迷子ほど厄介な迷子はいない。オルテガは、この迷宮にも思える自己完結性を打破するには、自分は迷子であると認識し、その迷いと共にいる必要があると語っている。ポイントは、自分がすぐに出せる判断や考えの中に「答え」や「解決」を見つけるのではなく、そうしそうになる自分を疑うことである。
「沈黙」「警戒」「聞く」といったモチーフを通じて、オルテガが何とか言語化しようとしたのは、「自分は決してパーフェクトではなく、常々危うさを抱えている」と知っている人の抱えた不安と警戒心であり、そして、世界や他者の中で起きていることに注意深くあろうとする人の持つ豊かで緊張感のある好奇心だった。
多様な他者を住まわせる
「自分の頭で考える」というフレーズは褒められることとして流通している。しかし、自分の頭で考えた結果の大半は、実に平凡で、ありがちな意見や考えに終始している。自力思考が平凡なアウトプットに陥るのは、自分が既に持っている考えを再提出しているに過ぎないからである。未知を注意深く観察して問題に取り組むはずだったのが、自分が既に正しいと心のどこかで思っていた事柄を「結論」や「意見」として差し出しているだけである。
このような視点に立つことで「自分の頭で考えているか」を問題にする人が置き去りにしている論点があることが見えてくる。即ち「私たちはどのように考え進めるといいのか」といった論点である。問題の核心は、自分なりに頭を使うことだけが先行して、考えた気になり、満足してしまうことにある。
「自分の頭で考える」の代わりにできることは「他人の頭で考える」ことである。それは「他者の想像力を自分に取り入れる」ことだと言い換えられる。私たちに欠けていて、専門家から学び取った方がよいものは「知識」と「想像力」に他ならない。どんな「知識」も使い所や使い方と一緒に学ばなければ仕方がない。その知識の使い所や使い方を「想像力」と呼ぶ。想像力の豊かさは「自分の内側に他者を住まわせていくこと」を指していると言い換えることができる。つまり、多様性に富んだエコシステムを作ることが「豊かな想像力を持つ」ことになる。
自分自身と対話するために孤独が必要
通信機器の進化は、リアルタイムのやり取りを期待させる。そして、スピードばかり期待して「待つ」「受け止める」ことができなくなっている。この常時接続の世界で失われたものは、2つの観点から説明できる。
①孤立:他者から切り離されて何かに集中している状態
私たちは、反射的なコミュニケーションを積み重ねている。色々なコミュニケーションや感覚刺激の多様性が、1つのことに没頭することを妨げている。
②孤独:自分自身と対話している状態
退屈に耐えきれず、何か刺激やコミュニケーションを求めてしまう。自分自身と過ごすことができない。
哲学者ハンナ・アーレントは「1人であること」を「孤独」「孤立」「寂しさ」という3つの様式に分けている。「寂しさ」は、色々な人に囲まれているはずなのに、自分はたった1人だと感じていて、そんな自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態である。
スマホは「寂しさ」からくる「つながりたい」「退屈を埋めたい」というニーズにうまく応答してくれる。しかし、「寂しさ」からくるマルチタスキングは、色々な刺激の断片を矢継ぎ早に与えるものなので、1つ1つのタスクへの没頭がない。そうすると、ふとした瞬間に立ち止まった時、「あれは何だったんだ」と虚しくなったり、つながりの希薄さを実感したりする。
スマホ時代において、孤立は腐食し、それゆえに孤独も奪われる一方で、寂しさが加速してしまう。そうした存在の仕方の危うさに私たちは気づいていない。
スマホ時代に必要なのは孤独と孤立であり、それらがあってこそ、自分を浸している感覚に耳を澄ませ、衝撃的な経験と折り合いをつけていくことができる。その時に動いているはずの感情の尻尾を捕まえ、それが指し示す先をまなざすために、私たちには孤独が必要である。