才能の正体

発刊
2018年10月17日
ページ数
313ページ
読了目安
371分
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才能は努力によって生み出される
『ビリギャル』の著者が、才能とは努力によって得られるものであると解説している一冊。「才能がある」とはどういうことなのか、教育者として様々な生徒を育ててきた観点から紹介しています。

才能があると言われる人は、正しいやり方で努力をしている

「才能=能力」ではない。「能力」というのは、コツコツと努力を続けられれば、誰でも身につけることができる。この「能力」が高まっていくと、人より飛び出たり、尖ったりする部分が出てきて、やがてそこが「才能」として認められるようになる。

いわゆる「才能がある」と言われている人たちには共通点がある。それは、みんな努力をしていることである。すべての人は、優秀と言われる可能性を持っている。では、どこで差がつくのか。

自分に合っていない、ふさわしくない場所でいくら頑張っても、物事は身につかない。「才能がある」と言われる人たちは、その人に合った動機付けがまずあって、そこから「正しいやり方」を選んで、コツコツと努力を積み重ねている。そして、きっちりと結果を出して、その時に初めて「才能がある」という状態になる。

人は結果からしか判断しない

『ビリギャル』のさやかちゃんは、元々、地アタマが良くて、才能があったんでしょう、という言い方をされる。さやかちゃんは、学年ビリからスタートして、慶應義塾大学に受かったが、みんな『慶應に合格した』という、結果しか見ていない。多くの人は「結果だけ」を見て、この人は「地アタマがいい」「才能がある」と言っているのである。

では、もしさやかちゃんが受験に失敗してすべての大学に落ちていたら、それでも彼女は「地アタマは良かった」「才能はあった」と言われただろうか。金髪のギャルで、聖徳太子を「せいとくたこ」と読んでいたさやかちゃんが、もし受験に失敗していたら、周りから「それ見たことか」みたいに言われていたでしょう。

どんな人であっても、結果が出たら「元がいい」「地アタマがいい」と言われ、結果が出なければ「元々、才能がない」と言われる。多くの場合、「結果」が才能の有無の判断基準になる。

動機付けで努力を重ね、才能を生み出す

人間というのは「これなら自分にできそう」で、しかも「これはきっと人生の役に立つに違いない」と思えたら、行動に移す。これが「認知」である。認知次第で、今、目の前に広がっている世界の見え方も、価値観も、がらりと変わる。それによって、その先の歩き方や組み立て方が変わってくるので、スタート地点で「自分が、何をどう認知しているか」を冷静に正確に観察することが大切である。

「認知」に加えて、動機付けには「情動」と「欲求」も必要である。「情動」というのは、感情が燃え上がってテンションが上がる状態。テンションが上がらないと、何事も続かない。「欲求」は、「本当に自分がそれをやりたいと思うかどうか」である。自分が本当に続けたいという気持ちがあるのかどうか、即ちある程度安定した心理的エネルギーとしての「欲求」があってはじめて「動機付け」になる。

結果ではなく、過程を楽しむ

才能というものは、誰にでもあって、それは「正しい努力」次第で手に入るものである。誰でも、何かを始めて、それを継続していければ、やった分だけ成長して、経験した分だけ経験値は増えて、必ず伸びていく。能力が伸びれば、その「部分」が極立ってきて、「才能」になる可能性がある。

問題は、「自分にはできないと認知した段階」で丸ごと諦めてしまうことである。

「才能がある」と言われる人たちは「How型」で物事を考える。How型の人は、結果に意識がいっているのではなく、その瞬間の変化、過程を楽しむ。一方、「Why型」の人は、なぜできなかったのか、それは自分に才能がなかったからだと、自分に限界を作ってしまう。能力を伸ばして才能を手に入れるには、「How型」で物事を考えなければならない。