路地裏の資本主義

発刊
2014年9月10日
ページ数
236ページ
読了目安
269分
推薦ポイント 4P
Amazonで購入する

Amazonで購入する

資本主義を考え直す
行き過ぎた資本主義というものを、身近な路地裏経済から見直し、その本質を考えるコラム。貧富の差の拡大と乱開発を招く資本主義は、本当に良いシステムなのかを問う内容です。

生活の豊かさと商品の豊かさは同義か

現代ほど、お金の万能性信仰が高まった時代は、かつてはなかったのではないか。資本主義の発展段階で、つまり産業革命を経て、生産能力が大幅に増大し、その延長線上にある私達の世界には商品が溢れるようになった。私達の生活の豊かさとは、ほとんど私達が手にする事のできる商品の豊かさと同義語になってきている。

 

現代を特徴付けている消費資本主義がつくり出す社会とは、身の回りのすべてのものがお金と交換可能であるような社会であると言ってもいいかもしれない。それゆえに、このすべてのものと交換可能なお金という商品の万能性が信仰の対象になっている。

 

資本主義が素晴らしいシステムとは限らない

今のところ資本主義は地球上で最も広範な地域で機能している社会・経済システムであり、これから先もしばらくは支配的なシステムであり続ける事は確かだろう。しかし、広範に採用されているシステムが、最も素晴らしいシステムなのだと断定するのは早とちりである。

ソビエト連邦が崩壊した時に、社会主義はだめだ、資本主義こそが理想的な社会・経済システムである事が証明されたという経済学者や政治家がいたが、ソ連の崩壊以後の資本主義は次第に弱肉強食のダーウィニズムに似てきており、金融資本主義はリーマン・ショックのような詐欺まがいの事件まで引き起こした。一方で、人々の生活は楽になったとはいえず、貧富の格差は拡大し、地域環境をおびやかす乱開発が懲りもせずに続けられている。

 

私達は、それがどんなに多くの欠点を持っていたとしても、今のところ資本主義に代わりうる新しい経済システムを発見できていないが、将来のどこかで、人間は資本主義的な生産方式、市場原理主義、自由主義経済といったものとは、原理の異なる社会システムをつくり上げる必要に迫られる。

 

資本主義の最終段階

資本主義とは、その信仰の上に成立している社会経済システムである。貨幣は本来的には、交換市場という空間の中だけで、万能性を発揮できるものであるにもかかわらず、貨幣に対する信仰は交換市場という現物のものを変質させて、身体性を失った貨幣市場というものをつくり出した。そこで交換されるのは、貨幣という商品だけであり、労働の結果生み出された実物としての商品ではない。ただ貨幣に対する信仰だけが、交換の尺度になった。もはや、労働を媒介とする事のない商品市場が金融市場というわけで、それこそが、資本主義の最も純化された形であり、私達は自然の慎み深さを忘れ去り、今は資本主義の純化の最終段階に立っている。

 

貨幣が生まれてこの方、人間の社会は、贈与・互酬的な共同体と、商品経済システムがアマルガムになった交換システムの上に築かれてきた。現代社会の中にも親子関係や、共同体の内部においては贈与・互酬的な価値観が生き残っている。人間の歴史は、この贈与・互酬的な交換システムを徐々に縮小する方向へ向かい、商品経済システム、契約による等価交換を拡大する方向へ向かって動いてきた。交換システムや人間観は時代と共に変化するが、それを進歩だという訳にはいかない。

 

お金で買えないものもある

私達が、あくせくと働く理由の大半は、お金儲けのためである。しかし、よく考えてみると、お金儲けのために働くというのも少しおかしな話である。お金にはどんな使用価値もない。交換価値があるだけである。私達は、そのお金を何かと交換したいと思っている。いつでも、何かと自由に交換できる状態を得るために働いている。

 

それでいて、本当は自分が何を欲しいのかについてよくわかっている訳ではない。いつの間にか「お金持ちである自分」が目標だというのでは、本末転倒である。効率化が最優先する時代において、最も貴重なものとは時間である。

 

日本の戦後は、経済発展をベースにした利便性と合理性の追求の歴史だった。コンビニの出現によって、私達はお金さえあれば1人でも生きていける利便性を獲得した。コンビニは24時間、いつでもお金さえあれば、必要なものと交換する事ができる全く便利な市場である。そこで必要なものは、お金だけであり、学歴も友人の助けも家族の協力も地域の人々との縁も不要である。

しかし、もしも私達がお金を持っていなければ、コンビニにとって私達は全く無縁の存在であり、どんな支援も、協力もしてくれない。その時にだけ、私達は気付く事になる。コンビニ生活では全く必要のなくなったもの、つまり友人の助けや家族の協力や、地域の人々の支援といったものが何であったのかということを。