河合隼雄の「幸福論」

発刊
2014年9月13日
ページ数
255ページ
読了目安
289分
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人間の幸福とは何か
臨床心理学の第一人者である著者が、人生の様々なことについて書いたエッセイ。
人間の幸福とは何かについて、心に沁みる話がつづられています。

時間に縛られない

現代人の我々は「時間」と無関係になど生きられない。他人と約束した時間を守らなかったら、一人前の人間として扱ってもらえないであろう。その対策の1つとして、時には「時間を忘れ」たり「時間にこだわらない」生き方をする「時」をうまく確保する事であろう。

 

タテマエにとらわれない

日本の特別な事情として「上手な子育てによって、子供を幸福にしたい」という気持ちが強すぎる。子供にあれもしなくては、これもしなくてはと思う。しかし、なかなか思い通りにゆかぬので、どうしても親は罪悪感を感じてしまう。その上、「子供を幸福に」という時に、子供がその子の本来の道を歩む事を考えるのではなく、よい成績とか、よい大学とか世間一般の評価にそのまま頼ってしまう。親は、本当に子供の幸福のためにか、自分自身の幸福のためにか、どちらのために子育てをしているのか、わからなくなってくる。現代に生きる我々としては、建て前にとらわれずに、子供の姿をよく見る事が大切であろう。

 

何を伝えるのか

現代はおびただしい情報がとびかっている。それらの中で正確なものをどれほど速く、多く受け取るかが、その人の幸福につながってくる、と考えられる。確かに情報が不足していたり、間違った事を信じていたりする事によって損をする事がある。そのために、多くの人が情報を速くたくさん受け取る便利な方法を求めて苦労している。しかし、それだけでいいのだろうか。情報以外に人間にとって大切なものはないだろうか。情報を正確に多く速く伝える事を重視しすぎると、人間が生きてゆくのに大切な「やるぞ!」というような心の動きが抑え込まれてしまう。

 

輪廻転生

平安時代の文学を読んでいると、そこに「輪廻転生」という事が語られる事がある。生命ある者が死んだと思っても、それは後の世に再び生まれ変わる、と言っても人間に生まれ変わるとは限らない。時には、馬になったり猫になったりし、いろいろなものに転生する。現在に生きている、いわゆる先進国の中では、転生という事を信じている人は極めて少ないだろう。

 

現代人は「関係を切る」事によって「便利」な生活をしようと思い過ぎていないだろうか。早い話が、ビフテキを楽しんで食べようとするには、それまでのその牛の生活、それを世話した人、殺した人、料理する人、いろんな事すべて「関係づける」事を、さっぱりとやめねばならない。

しかし、関係を切る事にばかり熱心になり過ぎて、自分が全くの孤独である事にふと気付いた時、不安でたまらなくなるのではなかろうか。病気になれば医者がいる。腹が減れば食堂に行けばよい。このような言い方をする限り、我々は孤独ではなく、便利に生きている。しかし、そこに生じる「関係」は薄いものではなかろうか。

 

この人は自分の父親の生まれ変わりである。この猫はひょっとして自分の親しかった人の生まれ変わりかもしれない。このように考えていると、その「関係」は極めて深く、長いものになる。そのような濃密な関係に支えられて昔の人は生きていたのではなかろうか。昔の人達の知恵はそれほど簡単に否定できぬものがあるようだ。

 

幸福の効率計算

好きな事をするのは楽しい。それは幸福につながる事である。他人がそれをどう考えようが、自分にはあまり関係のない事だ。10円を払ってうどんを食べる事と800円を払って音楽を聴く事は、どちらが割に合うか。そう考え始めると、人間の感じる楽しさや幸福が平板化されてくる。「効率、効率」と縛られて生きる事自体が人間の心の余裕を奪ってしまって、効率的な幸福を追い求める事で疲れてしまう事にもなる。

ある楽しさや幸福感を「かけがえのない」ものと感じるなら、それは「無限大」とも言える訳で、そうなるとそのために使用するお金や時間の量がどれほど大きくなったとしても、効率計算など全く問題ではなくなってしまう。

 

人生の味

ものが豊かになった。子供の頃を振り返ってみると、食事が贅沢になった事に驚く。子供だった頃は、ライスカレー、親子丼、寿司などは大変な御馳走だった。こんなのを昼食に食べる事など考えもつかなかった。現在はまだに飽食の時代である。

 

しかし、ものが豊かになったために、我々はなるべく多くとか、なるべく早くとかいう考えにとらわれてしまって、すべてが「大味」になり、心の細やかさを忘れてしまって、物事を落ち着いて味わう事を忘れてしまっていないだろうか。飽食というのは量に関する事であって、心のこもった味という点では、むしろ貧困になってはいないだろうか。このように考えると、これは食事の味だけではなく「人生の味」という点にまで拡大して、我々の生き方を全体的に検討するべきだと思われてくる。遠い外国へ行った、たくさんの人と会ったなどと量的に計れる事だけを頼りにしていて、人生の微妙な味わいを忘れてしまってはいないかを反省するべきである。

 

なぜ、私だけが

「なぜ、私だけがこんなに苦しまねばならないのか」と嘆く人は多い。しかし、どんな不幸であるにしろ「私だけが」と言えるのは素晴らしい。現代は個性が大切と言われる。「個性を伸ばそう」などという言葉は日本中の学校や会社に行けば行く事ができる。しかし、実際は自分の「個性とは何か」と考えても、なかなかわからないものである。とすると、内容はどんな事であれ、「私だけが」と言えるとは、大した事である。つまり、「なぜ、私だけが不幸なのか」という問いは、個性発見への切り口を提供している。それならば、その切り口をもっと広げ、そこから見出されてくるものに、いかに苦しくても、注目してゆこうではないか。