グローバリズムという病

発刊
2014年7月25日
ページ数
212ページ
読了目安
247分
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グローバリズムというお金儲けのための論理とは
経済成長期から成熟期を迎えたにもかかわらず、未だに発展途上を求めて、グローバルと唱える日本。グローバリズムという思想とは、そもそも何なのか。それがもたらず帰結とは何かが語られています。

グローバリズムとはお金儲けの方便に過ぎない

グローバル化という言葉に込められた野望は、脱国家、超国家ともいうべきものであり、その主体は国民ではなく多国籍企業に他ならない。この国家と企業という2つの倫理体系、法体系、経済体系が今、世界中で激しく衝突している。

問題なのは、企業の「掟」と国民国家の「法」という二重の支配力が生じてしまうという事である。これはやがて国民国家を崩壊させる事になるかもしれない。

 

自由貿易や世界標準、共通言語といったグローバリズムを特徴付ける事柄の根拠を探っていけば、グローバリズムとは世界を豊かにし、人間を貧困や圧政から解放するための社会思想でも経済思想でもなく、ビジネス勝者が勝ち続けるための、露骨な、なりふり構わないお金儲けの方便に過ぎないという事がわかってくる。

 

お金儲けのための競争戦略

グローバル標準とは、グローバリズムを推進する側のルールであり、共通言語も彼らの母語である訳で、それらを採用するという事は、一長一短あったローカルルール、それぞれの母語でやっていた国や地域が、これまで築き上げてきたビジネス習慣を捨てて、不慣れな外来のシステムに糾合される事を意味している。ローカルルールや、ローカル言語が支配的であった国家や地域は、最初からハンディを負わされる事になるのである。

 

そこには、ビジネス上の公平性もなければ、本来の意味での正当性もなく、ただ力の強いものが弱者の生殺与奪の権利を掌握するという弱肉強食の論理があるだけである。グローバリストは自分たちのビジネス上の利益の最大化を狙っているだけであり、グローバリズムとは、世界規模にまで拡大されたビジネス競争戦略の1つなのである。

 

どのような経済システムであれ、近代国家においてはそれを採用する事の正当性が問われる。グローバリズムが主張する正当性がトリクルダウン効果である。富めるものがより裕福になる事によって露が大木から滴り落ちて枝下の雑草に注がれるように、貧乏人にも恩恵があるというものだ。しかし、金持ちが貧乏人を救うなどという事は、めったに起きる事ではない。

 

実際のところ福祉予算をカットして、大企業優遇の税制にシフトし、市場の原理に従って、弱体化して非効率な産業を潰し、国際的な競争力のある会社に資金が集中するような政策を何年も続けてきたはずだが、いつまで待っても、労働者の平均賃金は上昇せず、中小企業の経営は楽にならず、貧富格差は広がる一方であった。

平時において、日本のような成長しきった成熟国においては、企業が蓄えこんだお金が、国内の民間需要を掘り起こすための設備投資には回らない。成熟国の市場に投資したところで、投資収益率は上がらない。だから、だぶついたお金は、個人的な資本蓄積に回るか、運用という名目で金融市場に流れ込むだけであった。

 

グローバリズムは、通常は規制緩和、貿易の自由化、企業や人の流動化を推し進める一種の経済政策であるかのように見られるが、経済政策というよりは国際的な規模のビジネスと政治の癒着の結果考え出された、収奪のハイブリッドシステムと呼んだ方がいい。今は、成長を宿命づけられた株式会社というシステムが、政治や経済という胴体を振り回し始めている。

 

現在起きている問題は、過剰な消費社会が生み出したものであり、より過剰な消費社会へ向かわせたい企業の欲望と、より快適な生活を望む私達の欲望が共振して起きているという事である。私達はより快適な生活というものと、より消費可能な生活というものと見分けができないほど消費病に冒されてしまっている。その病から抜け出さない限り、世界の破壊が止む事はない。

 

右肩上がりの社会の終焉

今世紀に入って、世界の先進工業国は国内総需要の減退に直面している。車も家電も一通り行き渡れば買い替え需要しかなくなるのは当然であり、その総和はそのままGDPの鈍化という結果につながる。この事は企業にとっては看過できない問題であり、消費のフロンティアを求めて、消費意欲の旺盛な発展途上国に販路を求めるのは当然の事だろう。

 

しかし、自国の産業を保護したい当事国では、様々な関税障壁や規制を設けて、外来の競争的な商品が一気に流入して国内の産業を根絶やしにする事から防衛しようとする。各国独自のローカルルールもまた産業の流入の障壁になる。これを打開するためにグローバル企業が主張するのが、関税や規制の撤廃であり、統一された産業基準であり、同一の決済システムであり、同一の言語である。いまや、グローバル企業にとって最も邪魔なものが国民国家である。

 

グローバリズムの思想的な根拠は、自由主義であり、個人や企業の活動の自由を守るためには国家の役割は最低限のものにすべきであり、産業の消長に関しては市場の原理が最優先されるべきだというものである。代わって個人も企業も、自己決定、自己責任でリスクを引き受けなければならない。会社は株主のものであり、その利益を最大化する事が株式会社の目的になる。

 

株式会社の発明は、世界が右肩上がりで成長し、投下した資本が、局所的な損得はあったとしても、総体としては増加して戻ってくるという社会状況を前提としている。株式会社は、その資本と経営の分離という原理において、右肩上がりの社会を前提とした発展途上モデルなのである。しかし、株式会社の発明から350年が経過し、先進国において右肩上がりで経済が膨張してゆく時代が終わろうとしている。